表紙へ

-CANDY- Love Will Tear Us Apart 4章

(2019/04/14)

 去年の秋から何度もここに来ている。きちんと数えたわけじゃないけれど、六度目くらいだと思う。イサーンに来るのにかかるお金は全部で二千円もしない。金曜の夜に電車に乗って行けば週末の度に来るのも無理な話じゃない。

 五月にもう大学を卒業して日本に帰るようになっている。日本に帰ったらそんなにお金もないだろうし、タイに来ることも難しくなるんだと思う。そう思うと、何度でもメコンを見ておきたかった。何度見ても素敵だから。先輩の一人が卒業してイサーンのキャンパスに研究で引っ越して行った。最近は週末の度にそこに泊まって魚を釣ったり、煙草を吸ったり、ラオカオやビールやラムを夜な夜な飲んでいる。けどまとまった休みはこれが最後になっている。

 春の長期休みも明日で終わってしまう。バンコクに戻るとあとは最終テストと実習で、旅行をする時間なんてもうないだろう。大学生活が終わってしまうのも寂しいけれど、今日でメコン川を見るのが当面の間最後になるのはもっと寂しい。先輩の原付を貸してもらって毎日のように僕はメコン川を見に行っている。でも、満足って感覚になることはない。ずっとでも見ていたい。どうしていつまでも川を眺めていられるのか、僕は水面に多くのものを見つけることができるからだと思う。流れて行く水には、人の記憶が浮かんでいる、僕はそれを眺める、数えられないようなたくさんの人生を自分のように眺めている。知っているもので他にもっと面白いものはないと思う。それくらい、僕は川が好きだ。僕はできる限りこの景色を忘れないでいたいと思う。けど、記憶は失われてく、変わっていく。僕にはどうすることもできない。きっと人間の脳はパソコンに入れたデータみたいに整然としてないから。

 忘れるからこそ、何度ここに来ても素晴らしいと感じることができるのかもしれない。それもそれで良いことなのかもしれない。考えすぎないなら、それで幸せになれる。羨ましいと思う。きっと、川は全てを記憶する。川には何もかもの記憶があると僕は思う。人の、草の、木の、魚の、全ての記憶をこの川は水に宿し、永遠に流れ続ける。だから、もし、どうしようもなくなってしまったら、僕はまたこの川に会いに来ようと思う。

 最後の夕日を見つめて、とてつもなく苦しくなった。あの光、あの波、あの色を見ていると、この世界がこんなにも美しいものなのか、と涙が溢れて来た。フランツ・マルク式の色彩のほとばしりが水面を飛び出して僕の方へ来る。風にも、波にも、色が付いている。どこまでも、美しい、ここに来ると全ての色が、僕を包んでくれる。全てを思い出すことができるような気がした。川が思い出させてくれる、そんな気がする。生まれてからこれまでの全ての記憶を。僕の幸せを、悲しみを、苦しみも、涙も、何もかもここでなら美しく見える気がした。でもいつまでもここに突っ立ってるわけにもいかない。しばらくお別れだ。日本に帰ったら、たくさんしたいことがあるんだ。僕を待ってる人がいる、とても素敵な人なんだ。だから、行かなきゃ。どうしても耐えられなくなったらここに来るよ。