表紙へ

-CANDY- Ceremony 4章

ぐっすりと眠っていたはずだったが、キャンディは夜中に目を覚ました。何時なのかは分からなかった。足音を立てないよう静かに二階へ上がると、フォンの両親が眠っている部屋を横切って木の扉を開ける。小さな部屋にフォンがすやすやと眠っている。彼女は静かに忍び寄り、彼の寝顔を眺めた。フォンはとても幼い、子供のように見える。愛おしい、無垢な少年の顔だ。キャンディは肩にそっと触れ、ゆっくりと揺すった。フォンは薄く目を開け、彼女の顔をみつめると優しく笑った。彼女はフォンの手を取って言った。

「目が醒めちゃったんだけど、ひとりで散歩するのは怖くって」

フォンは黙って頷いて起き上がり、枕もとで充電している電話で時間を見た。フォンは起き上がりパジャマの上に長袖のシャツを羽織った。そして彼女には紺の大きな布を渡した。

「民族衣装だよ」とフォンは彼女の耳元で静かに笑った。彼女は笑ってその布のような上着を羽織った。ふたりで静かに外へ出た。イサーンの空はとても澄んでいた。キャンディはまるで生まれたての瞳で星を見た。思えば飛行機に乗っていたこともあって彼女は目覚めてから一度も夜空を見ていなかった。星や夜を忘れてしまっていたように錯覚するほど、その空は美しかった。

ひとつひとつの星が残像を残しながら彼女の瞳に飛び込んでくるのだ。空にはこれまで見たどの空よりも多い星が力強く輝いている。遠い恒星の光は角度をつけながら彼女の脳まで線を描いて届く。静止しているはずなのに、流れ星のようだった。

風がそよいで、フォンは彼女の前を歩いていく。遅れまいと着いていく。彼女は今までで最も美しく忘れられない天幕の下にいた。農地の作物は淡い光に照らされ、亡霊の記憶のように揺れている。死んだ人の群れのようだった。だが、その影から怨念は感じられない。自然と取り残された記憶が漂っているだけだった。風にそよぎ、一定の向きに傾き揺れているがそれぞれに意思があるようで、それは誰にも気づかれず、人のように揺れている。

「綺麗な星空だ。きっと明日こそ失せものが見つかるよ」フォンは言った。

二人は畔をどこへ行くともなく歩いた。空気は涼しく、上着を羽織っていてちょうどいい気温あだった。キャッサバの畑にところどころ大木が切り倒されないで残っていた。それは地平線まで広がる畑の彼方まで、ぽつりぽつりと無作為に生え残っている。畑に残された木々は印象的に映った。

「あれはどうして切られてないの?」

「さあ、どうしてだろう。果物ではないし、ユーカリプタスならまとめて植えるからね。知らないよ。思い出とか、日陰とか、かな。見てて飽きないし涼める」とフォンは言った。

「私ね、本当は記憶がおかしいの。目もおかしいし。最初、彼を探すために旅に出た時は変なことは一つもなかったはず。一日か二日して、気づいたら三月になってたの。今日って何日?」

「三月七日」フォンは畑を眺めるキャンディの後ろで煙草を吸いながら答えた。

「半年近く経ってじゃない。私その間、自分が何してたかどうしても思い出せないの。髪の毛も知らないうちに伸びて、ウルフカットみたいでしょう?しかも、今は頭の中に、ものが増えている気がする。知らないものが混じって、ちょっと混乱することがあるの。それは誰かの記憶のような気もするし、私が経験したけれど思い出せない五ヶ月が、呼び起せないだけで脳みそには残されている気もする」

フォンは彼女の少し伸びた髪の毛に触れた。美しくさらさらとした金髪だった。フォンは黙って彼女が話すのを聞いていた。

「記憶がないっておかしな感じで、知らないはずのものを知ってるような気になることってあるでしょ?あれがより鮮明にしょっちゅう起こるのよ。気味が悪いし、私頭がおかしくなっちゃったみたいで、実際変なんだけど。それにね、今、私たちってタイの東北部にいるわけでしょう。私どうしてここに来たのかってわかってないの。目が覚めたら四月のおかしな森にいて、そこって東京のど真ん中にある有名な神社で森の中って人は入っちゃいけないわけなの。なのにそこに倒れてたの。それで、何を思ったか、そのまま電車で空港に行って、すんなり飛行機に乗ってこっちまで来ちゃって、それで、私ったら列車に乗ってこんな観光ガイドでも隅っこに載ってるかどうか、そんな静かな場所にまっすぐ来たのよ。おかしいでしょ?私が持ってるものって、いなくなった彼の日記帳、それだけよ」

「きっとキャンディは好きな人の亡霊に導かれてるんだよ。きっと彼も昔ここへ来たんだよ。今もいるかもしれない」

誰かの畑の休憩小屋に二人は腰かけて話していた。小屋と言っても、地面から一メートル高い樹の大枝を釘でとめたような床と、バナナの葉で作った屋根しかない、簡素な休憩所だ。そこから遠くの地平線と星空を眺める。

「君の瞳って、昔はそういう青いやつじゃなかったの?」

「ないよ。だって、私、五か月前に鏡を見た時は普通の黒い目だったもの。でも、今こうやって変わっちゃってるのを受け入れると、不思議と元からそうだったんじゃないかって気もする。記憶ってすごく脆いのよ。二十三年間毎日見ていた瞳が変わっても、自分の思い違いなんじゃないかって思っちゃうの。不思議だわ。視覚も随分おかしい。目って反射した光を受け取って脳で像にする仕組みでしょ? その受け取り方がどうも違う気がするの。光の色っていうより、強さとか温度も関係してるみたいで、例えば星は残像を残しながら目に飛び込んで来るみたいだし、人が透けて見える時もあったし、全く見えない時もあった。池や花がキラキラ輝いて見えたり、今の私って明らかにおかしい」

「きっとキャンディは特別な人なんだよ。だからこうやって他の人ができないようなことを体験してる。君はそれを現実でないと思うかもしれないけれど、これは現実さ。夢でもなければ、死者の世界でもない。今君にとって違って見える世界の有様も、もしかするとそっちが本物なのかもしれない」

フォンはそう言った。彼女は目覚め始める生物たちの気配を肌で感じた。彼らは動き始めようとしている。まだ空は白み始めてもいないが、夜の最後が近づいていることは手に取るようにわかった。

「朝日でも見に行こうか。いい場所知ってるから」とフォンは言った。

風は少しずつ弱まっているように思えた。それも夜が明けようとしている予兆かもしれない。

「暑くなる?」

「もちろん。今は一年で最も暑い季節だから」

彼女は部屋に戻って服を着替えた。暗い色のジーンズを穿いて、白いTシャツに袖を通した。Tシャツにはモノクロの彫像の写真が印刷されており、その写真の上には ぐっすりと眠っていたはずだったが、キャンディは夜中に目を覚ました。何時なのかは分からなかった。足音を立てないよう静かに二階へ上がると、フォンの両親が眠っている部屋を横切って木の扉を開ける。小さな部屋にフォンがすやすやと眠っている。彼女は静かに忍び寄り、彼の寝顔を眺めた。フォンはとても幼い、子供のように見える。愛おしい、無垢な少年の顔だ。キャンディは肩にそっと触れ、ゆっくりと揺すった。フォンは薄く目を開け、彼女の顔をみつめると優しく笑った。彼女はフォンの手を取って言った。

「目が醒めちゃったんだけど、ひとりで散歩するのは怖くって」

 フォンは黙って頷いて起き上がり、枕もとで充電している電話で時間を見た。フォンは起き上がりパジャマの上に長袖のシャツを羽織った。そして彼女には紺の大きな布を渡した。

「この近所で染めてるんだ」とフォンは彼女の耳元で静かに笑った。彼女は笑ってその布のような上着を羽織った。ふたりで静かに外へ出た。イサーンの空はとても澄んでいた。キャンディはまるで生まれたての瞳で星を見た。思えば飛行機に乗っていたこともあって彼女は目覚めてから一度も夜空を見ていなかった。星や夜を忘れてしまっていたように錯覚するほど、その空は美しかった。

 ひとつひとつの星が残像を残しながら彼女の瞳に飛び込んでくるのだ。空にはこれまで見たどの空よりも多い星が力強く輝いている。遠い恒星の光は角度をつけながら彼女の脳まで線を描いて届く。静止しているはずなのに、流れ星のようだった。

 風がそよいで、フォンは彼女の前を歩いていく。遅れまいと着いていく。彼女は今までで最も美しく忘れられない天幕の下にいた。農地の作物は淡い光に照らされ、亡霊の記憶のように揺れている。死んだ人の群れのようだった。だが、その影から怨念は感じられない。自然と取り残された記憶が漂っているだけだった。風にそよぎ、一定の向きに傾き揺れているがそれぞれに意思があるようで、それは誰にも気づかれず、人のように揺れている。

「綺麗な星空だ。きっと明日こそ失せものが見つかるよ」フォンは言った。

 二人は畔をどこへ行くともなく歩いた。空気は涼しく、上着を羽織っていてちょうどいい気温あだった。キャッサバの畑にところどころ大木が切り倒されないで残っていた。それは地平線まで広がる畑の彼方まで、ぽつりぽつりと無作為に生え残っている。

「あれはどうして切られてないの?」

「さあ、どうしてだろう。果物ではないし、ユーカリプタスならまとめて植えるからね。知らないよ。思い出とか、日陰とか、かな。見てて飽きないし涼める」とフォンは言った。

「私ね、本当は記憶がおかしいの。目もおかしいし。最初、彼を探すために旅に出た時は変なことは一つもなかったはず。一日か二日して、気づいたら三月になってたの。今日って何日?」

「三月五日」フォンは畑を眺めるキャンディの後ろで煙草を吸いながら答えた。

「半年近く経ってじゃない。私その間、自分が何してたかどうしても思い出せないの。髪の毛も知らないうちに伸びて、ウルフカットみたいでしょう?しかも、今は頭の中に、ものが増えている気がする。知らないものが混じって、ちょっと混乱することがあるの。それは誰かの記憶のような気もするし、私が経験したけれど思い出せない五ヶ月が、呼び起せないだけで脳みそには残されている気もする」

 フォンは彼女の少し伸びた髪の毛に触れた。美しくさらさらとした金髪だった。フォンは黙って彼女が話すのを聞いていた。

「記憶がないっておかしな感じで、知らないはずのものを知ってるような気になることってあるでしょ?あれがより鮮明にしょっちゅう起こるのよ。気味が悪いし、私頭がおかしくなっちゃったみたいで、実際変なんだけど。それにね、今、私たちってタイの東北部にいるわけでしょう。私どうしてここに来たのかってわかってないの。目が覚めたら四月のおかしな森にいて、そこって東京のど真ん中にある有名な神社で森の中って人は入っちゃいけないわけなの。なのにそこに倒れてたの。それで、何を思ったか、そのまま電車で空港に行って、すんなり飛行機に乗ってこっちまで来ちゃった、それで、私ったら列車に乗ってこんな観光ガイドでも隅っこに載ってるかどうか、そんな静かな場所にまっすぐ来た。おかしいでしょ? 私が持ってるものって、いなくなった彼の日記帳、それだけよ」

「きっとキャンディは好きな人の亡霊に導かれてるんだよ。きっと彼も昔ここへ来たんだよ。今もいるかもしれない」

 誰かの畑の休憩小屋に二人は腰かけて話していた。小屋と言っても、地面から一メートル高い樹の大枝を釘でとめたような床と、バナナの葉で作った屋根しかない、簡素な休憩所だ。そこから遠くの地平線と星空を眺める。

「君の瞳って、昔はそういう青いやつじゃなかったの?」

「ないよ。だって、私、五か月前に鏡を見た時は普通の黒い目だったもの。でも、今こうやって変わっちゃってるのを受け入れると、不思議と元からそうだったんじゃないかって気もする。記憶ってすごく脆いのよ。二十三年間毎日見ていた瞳が変わっても、自分の思い違いなんじゃないかって思っちゃうの。不思議だわ。視覚も随分おかしい。目って反射した光を受け取って脳で像にする仕組みでしょ? その受け取り方がどうも違う気がするの。光の色っていうより、強さとか温度も関係してるみたいで、例えば星は残像を残しながら目に飛び込んで来るみたいだし、人が透けて見える時もあったし、全く見えない時もあった。池や花がキラキラ輝いて見えたり、今の私って明らかにおかしい」

「きっとキャンディは特別な人なんだよ。だからこうやって他の人ができないようなことを体験してる。君はそれを現実でないと思うかもしれないけれど、これは現実さ。夢でもなければ、死者の世界でもない。今君にとって違って見える世界の有様も、もしかするとそっちが本物なのかもしれない」

 フォンはそう言った。彼女は目覚め始める生物たちの気配を肌で感じた。彼らは動き始めようとしている。まだ空は白み始めてもいないが、夜の最後が近づいていることは手に取るようにわかった。

「朝日でも見に行こうか。いい場所知ってるから」とフォンは言った。

風は少しずつ弱まっているように思えた。それも夜が明けようとしている予兆かもしれない。

「暑くなる?」

「もちろん。今は一年で最も暑い季節だから」

 彼女は部屋に戻って服を着替えた。暗い色のジーンズを穿いて、白いTシャツに袖を通した。Tシャツにはモノクロの彫像の写真が印刷されており、その写真の上には‐CLOSER‐という文字がある。