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-CANDY- Love Will Tear Us Apart 5章

(2018/10/07)

 タナムノン埠頭は三年前と同じままだった。時計台はそこに暑すぎる今日の気温を示していた。三十二度は十月にしては暑すぎたが、僕は驚かない。これはバンコクでの三度目の十二月だからだ。時計台は十メートル少々の立派なもので、もちろん時計台というからには立派な時計もついている。黒くて太い針はタイ数字の文字盤を指している。五時を回ったばかりだ。時計台を迂回してUターンするバスの間を駆けて、僕は船着場へ走った。水際へ寄って、水の中を覗き込んだ。行き交う客船の立てる波にもブレないで泳ぐパンガシウスナマズたちの姿があった。彼らの平たい頭と重たそうな鈍色の身体はすぐに僕に感覚を返してくれた。

 十二月の太陽は対岸の街並みに沈み込んでゆく。三年前と同じ風は今日も泥色の水を彩っていた。夕日が沈むのはノンタブリ県よりも西の、ナコンパトム県よりもずっと西の、カンチャナブリ県とミャンマーの国境なのだろうか。いやそれよりも遠くかもしれない。

 僕は三年前、初めてバンコクに来た時も、きっとこうやって遠く知らない世界を思い描いたはず。でも、あの時はこの埠頭に一人でいたわけではない。チャオプラヤに群れて泳ぐナマズたちの名前を教えてくれる日本人の友人がいた。彼は関西弁で、これはパンガシウスに違いないと僕に教えてくれた。あの十月は何もかもがまだ新鮮だった。

 療養に帰った日本でアメちゃんに出会ったことは、まるで、極楽から銀色の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空に垂れてきたようなものだった。僕は今、彼女が垂らした糸を登っている。

 糸が見えただけ幸運だけれど、登ることは決して簡単ではない。考え方を変えたくらいで人は強くはなれない。精神論は気休めでしかない。僕は今、行動で自分を鍛えている最中なんだ。前と同じようでは、なんとか大学を卒業して日本に帰ったとしても似たような苦難にぶつかるだろうし。そう思うとおぞましい、なんとしても避けたい。まだ、苦しかった日々の感覚を覚えているうちに僕は行動し自分を鍛え上げようと強く誓った。

 八月、バンコクに戻るとアメちゃんが電話をかけてくれた。彼女は僕の弱い部分を羅列し、どう変われば素敵かを教えてくれた。僕は真剣にメモを取った。それに従って行動しているうちは、リンボに落っこちることは無い。動き続けることは逃げ続けることでもあるんだ。

 チャオプラヤ越しの夕日は筆で引いたような薄い雲が絡まり合っていた。風の子供が遊んだ跡のようにも見える。アメちゃんに提案される通りに生活し始めて四ヶ月目だ。バンコクで過ごしたどの十二月よりも充実しているような気がする。三年前、初めてここで過ごした十二月、僕は偶然この埠頭に来たんだ。あの日、友人は衝動に駆られバスに乗り込んだ。それは偶然にもタナムノン埠頭を終点とするバスだった。僕はあの日、生まれて初めてタイの母なる川、チャオプラヤを見た。僕はこの場所が気に入っていたんだ。でも、どうしてもまた訪れることができなかった。夢のようだった日々を思い出すと苦しくなるはずだと思ったから。

 久しぶりに来てよかった。夕方の露店も、混んだ道路も、郊外を流れる濁った運河も、路地に茣蓙を敷いて夕涼みしている年寄りも、彼らに見守られながらボール遊びをする少年たちも、変わらないでいた。太陽は僕が来るのを待っていたんだ。三年前から二度と沈まずに僕を待ってくれていたんじゃないかってくらい、赤い夕日だった。

「もしもし。受験勉強の方は捗ってる?」僕は川から帰ってシャワーを浴びると、すぐ彼女に電話した。

「朝から晩まで勉強してるよ」

「偉い。大学受かるといいね」

「ありがと。もう。来月センター試験なのにさ、私たち毎日喋ってる。せめてそれまでは一週間ごとくらいにしない?」

「大変なら平気。待つよ。きっと僕はこの調子だと大丈夫っぽいし。負けずに続けられる気がする」

「うん。ごめんね。大晦日はかけるかも。暇なら話そうよ。ね、今日はどうだったの? 話聞かせてよ。つまんないことばっかりで、あなたの話聞きたい。日記みたいなのでもいいから聞かせて」

「今日は、チャオプラヤ川の埠頭まで走ったんだ。アパートから大体二時間くらい走った。もちろん休憩とか挟みながらね。タイに来て最初の頃にそこに一度行ったんだ。あの時行ったきり、埠頭には行ってなかったんだ。もう、過去に引きずられてつらくならないくらいに強くなれたら行こうって決めてたんだよね」

「確かに、イチロウ君は変わって来たよ」

「そうなんだよ。アメちゃんに出会わなかったらこうはなれなかった。ありがとう」

「大げさだよ。で、どうだったの?」

「美しかったよ。まるで三年前と同じ夕日を見たんだ。そして、それを同じように感じられると自信が湧いて来てさ。夕日に彩られる波も、紅色、紺、オレンジ、黄金色、すっかり変わらないまま、強い流れに千切られながら揺れているんだ。僕はほとんど元に戻れたはず。波と夕日とナマズたちに背を向けた時、あの水の反射をもう一度見ておけてよかったと思った」

「誇らしいよ。良かったね。私もやる気出る。でもね、イチロウ君はまだ元に戻ったばっかりなんだよ。最後の半年は思いっきり過ごして、今までのどの自分よりも強くなるよ」

「何をしたらいいの?」

「運動してたくさん眠るの。たくさん本を読んで文章を書いて、それで、今まで行った場所で一番素敵だった場所にまた行くの」

「あなたがこれまでに見た最も美しい記憶って何?」

「川」

「それってさっき走って行った川?」

「別の川だよ。バンコクの川じゃない。それはラオスとタイの国境を流れる世界で最も美しい川なんだ」

「川なんて何が良いの?」

「とにかく川は本当に美しいんだ。それに智慧が詰まっているって言うか、なんて言うんだろう、僕は全ての時間とそこに暮らした全ての人の記憶が流れ続けているように思うんだ。美しいんだ。とても、とても美しいよ」

「その場所、いつか私にも見せて欲しいな。一緒になれたら、連れて来てね」

「それってすごく楽しそう」

「楽しいに決まってるよ」