着替え終わってキャンディは、夜明け前の暗い空の下、外の縁台に座って待っていた。フォンがガラスの小さなコップを持って出てきた。縁台に座って二人で飲んだ。コップには温かいお茶が入っていた。砂糖もミルクも入っていないお茶だ。緑茶でも紅茶でもないお茶だった。葉を取っている植物は同じようだが独特な香ばしい匂いと、苦みがあった。
「これを飲んだら、もう新しい日が始まるんだ。僕たちはずっと起きてるけれど、ここからが朝、境界を今越えたんだ。さあ、行こうか」フォンは言った。
彼女は鍵を投げた。彼は鍵を受け取ってエンジンをかけ、彼女が借りた紫の原付にまたがった。いつでも行けるよ、とフォンは手招きした。ヘルメットを被って後ろにまたがる。原付に二人乗りできるこの国は若者たちの天国だと彼女は思った。夜明け前の空に原付の走りだす音が低く響いた。
フォンは舗装された道を行かなかった。畑の間をしばらく行き、ユーカリプタスの林を抜けた時、遠くへ行っているのだなとキャンディは漠然と理解した。同じような景色が繰り返されていくため、自分が明確な目的を持たずに動いているような錯覚を持った。
真っすぐ前の、視界の突き当りで地平線がわずかに白み始め、キャンディは約束の場所を思い出した。この原付の向かう先で、何故か自分の記憶の外で、誰かが愛した場所がある。彼女は自分が夢の中にいるのではないということを理解し始めていた。経験している全てのことは紛れもない現実で、このことは夢の様に忘れてしまいはしないだろうと思った。
原付のヘッドランプが薄暗い土の地面を照らしている。タイ語で雨という意味の名を持つ青年が、生まれ変わったキャンディを導いていく。白いヘッドランプに照らされていた道路は、少しずつ明るくなり、もはや人口の光を必要としないまでになっていた。向かいから昇る神の輝きが孤独の人々を包みこもうとしている。最後の林を抜けると、視界は開け、先には広く空が、そして、夜明け寸前の視界を大きな川が。大河はゆっくりと流れながら、朝日が上がってくるのを待つ。脳みその中に存在する他人の記憶が、かつての感動を呼び起こすのを彼女は覚えた。彼の記憶。
「メコンだ」
対岸の異国の地平は遠い山並みで、その影の向こうから偉大なる太陽が顔を見せ、雲一つない薄青い空の、川面の、そこかしこにまっすぐの太陽の赤い線が伸び、波に散らされて広がった。水面に映る赤い太陽はこの世で最も美しいものに違いなく、さっと風が吹いて赤く染められた波も流れた。彼女はじりじりと瞳を焼かれるのを感じ、目を瞑った。半透明の瞼の向こうで色とりどりの光が散っていた。朝日が水面を最も美しく染めているのはほんの一瞬で、気づけば夜明けの緊張感はなく、そこには生き物たちの朝がどっしりと腰を下ろしていた。もう「すぐ近く」だと直感が怒鳴り彼女は目を見開く。
帰り、原付の上のフォンの背中で彼女は幾度となく川面に浮かぶ太陽を思い出していた。空が太陽と月の世界であるように、水面が彼女と一郎の世界だったら、とキャンディは憧れた。そこに映りこむ世界全てが二人を描いているのだと彼女はわがままに想像した。水面から揺らぎあがる大気は恋人たちの記憶と感情の陽炎だった。水面を二人の生命を繊細な自然の力で結び留めている、この世界そのものなのだ。彼女は考えた、一郎は彼女が彼を愛したのと同じくらい、自分を愛していた、それは慰めでもなんでもない、幸せ? 彼の心は美しく、同時にとても壊れやすかった。その脆い美術は簡単に安定を失い崩れ落ちてしまう。美は狂いだ。歳を重ね、彼が瞳で世界を一秒見つめるごとに、心の中にある曼荼羅は重くなり、また、その光が心の闇を照らし消してしまう。彼の精神は自らの作り上げた美しい世界を支えきれずに崩壊したのだ。彼女は一郎を助けようとできる限りのことをしていたのは事実だが、内面のほころびに他者が手を差し伸べることは決してできない。どれだけ愛し合っていたとしても、異なる人間は完全に分かち合うことができないのだ。直接繋がった生命にならない限り、完全に理解し合うことはできない。
一郎は行動と意思、感情が歪んでバラバラになってしまうことを恐れ、全てが一カ所にあるうちに繋ぎ止められているうちに消え去った。今の彼女なら一郎を再び固く結び直すことができるような気がした。フォンの背中ににじむ汗を嗅ぎ、自分が本当の世界にいることを確信し、また彼女は自分に一郎を助ける力があると確信した。