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-CANDY- Love Will Tear Us Apart 6章

(2018/05/010)

 アスファルトの上を踊るように歩いてきた彼女は軽かった。彼女が握りしめた勿忘草、涼しく揃えられたおかっぱ頭、僕の心も跳ねるように軽かっただろう。風に吹かれて浮き上がってしまうんじゃないかってくらい、僕たちは軽かった。もしかしたら、あの勿忘草の水色を見て、僕はやっと醒めた気になったのかも知れない。

 彼女は右手に握りしめた勿忘草の束を僕に渡した。そうして僕と彼女の駆け抜けるような日々は始まった。

「勿忘草の花言葉ってなんだと思う?」

 雨粒は力強く地を叩いていた。彼女の頬にも雨粒は当たっていた。

「私を忘れないで、大丈夫。僕は君を忘れない」

 イチロウ君泣いてるみたいだよって、彼女は僕に言ったけれど僕は実際に泣いていたんだ。あの雨は運命のようで、僕は新しい日々が始まる予感に感動していた。本当にバカみたいに。彼女には勿忘草の花の色のようにどこか掴めない不思議なところがあった。水色が似合う彼女にはレインのアメの方が似合ったけれども、彼女は自分はキャンディのアメなんだといつも言い張って聞かなかった。おかしなこと考えてふらふらしてる彼女は雨なんだ。僕は彼女をアメちゃんと呼ぶ。

 その日、僕たちは岡山の三石という小さな町で散歩をしていた。誰も知らないような町で、僕は今もその町が三石町なのか三石村なのか、それとも全然違う名前のなんとか市の一地区に過ぎないのか、そういうことは知らない。その町は兵庫との県境に近いところにあった。ふらふらと電車に乗って何となくここで降りてみたわけじゃない。

 僕はアメちゃんに初めて会った時、電車の窓からこの町の景色を見ていた。あれから、僕はアメちゃんに電話をかける度にここの話をしてたらしい。無数の煙突と、プラットホームの向こうの茂みに咲いた藤の花が印象的だった。気に入ったものをしつこく話すくせが僕にはある。何度目かにその場所のことを僕が話した時、彼女は三石駅だと教えてくれた。岡山生まれの彼女にすれば、煙突がうんたらかんたら、って僕が呟くだけでその場所がわかる。それじゃ今度のお休みにあの町へ行きましょう? なんて彼女は電話越しに言って、僕はすぐに、いいよと返事した。

 電車には、平日のお昼前でもたくさんの人がいた。彼らは、皆揃いも揃って浮かない顔をして乗り込んできた。そして彼らは浮かない顔のまま降りていった。サラリーマンも老人も、旅行客の外国人も、誰も彼も面白くなさそうな顔をしていた。梅雨の時期だったからなのかもしれない。あの日は晴れていたけど、みんなじめじめした心が乾かないままだったんだろう。この梅雨が僕だけの憂鬱でないと思うと、嫌な気がしてイライラしたのを覚えている。

 姫路も過ぎると人々のストレスは薄れた。それは暇に変わっただけだとも言える。田舎に行くとはそういうことだった。そして、また田舎には田舎の憂鬱がある。

 長いトンネルを抜けると、まるで時間に通り過ぎられちゃったような景色が広がった。それは僕の脳裏に刻み込まれた景色そのまま。煙突がたくさん立っていて、街並みはセピア色、向こうの山は暗く霞んでいる。三石という見知らぬ小さな町の匂いに大きな期待をこめて僕はホームに降りた。すぐ向こうの改札の向こうではアメちゃんが無愛想にきょろきょろしている。

 砂藤アメコは十七歳の高校三年生だった。僕の目には、彼女は人というよりも、具現化した自然の意思か何かに見えた。改札の前で話しかけずに突っ立っていた僕に彼女は、「なにぼんやりしてるの? 早く行こうよ」と僕の目を見て言った。彼女の瞳は、山奥の渓谷で人知れず深く澄んでいる淵のようで、人の手に負えるものに思えない。電話してた時はいくらでも話せてたのに、意外と緊張しちゃうもんだなって、ちょっと不安に思ったりしながら僕は彼女の隣で歩き始めた。アメちゃんに対して畏怖に近いものを感じていたのも、あの頃の僕がいかにも脆い人間だったからだと思う。対照的に彼女の目は常に真っ直ぐに、しんと開いていた。

「セブンスター買って」

 彼女は静かに耳元で言った。コンビニで僕がおにぎりを選んでいる時だった。彼女は僕に煙草を買うように頼むと、あとは何もいわず、買い物かごと千円札を僕に押し付け店を出ていってしまった。しばらく僕は戸惑っていた。そして、少しの間、じっとその買い物かごに入ったカルピスとパンを眺めた。

「六七番と一〇七番の煙草を」

 店を出るとアメちゃんは駐車場のタイヤどめにちょこんとお尻を乗せて膝を立てていた。細めた目を遠く空へ向けてて、十七歳はどんな考え事をするんだろうって考えながら僕は彼女の方へ歩いて寄った。彼女の見つめる空は明るい晴れで、雲は情けなく太陽に吹かれて五月って感じだった。

「行こっか」

「うん、どこ向いて歩く」

「煙突見たいんでしょ」

「そう」

「じゃあ、あっちじゃない?」

 僕たちは言葉少なく歩いた。

「相生もこんな感じ?」

「もっと都会よ」

「ファミレスある?」

 空で、トンビがくるくると飛んでいるのを僕は目で追った。じっと彼女を見つめると自分が情けなく思える。

「あるに決まってんじゃん。イチロウ君の地元にもあるでしょ」

「あるよ。自転車で三十分かかるけどね」

「似た様なもんよ。行かないけどね、ファミレスなんか」

 ガソリンスタンドのある辻で曲がった。アゲハチョウが横切ってアメちゃんはそれを掴もうとして、指の間を風が抜けた。僕は彼女のどこに惹かれるのか、それをうまく見定められずにいた。

「煙草ちょうだい、買ったんでしょう」

 僕は彼女にセブンスターを渡しながら、なんで高校生なのに煙草吸うの?って尋ねるのがいいことなのかどうかわからなかった。だから、コンビニ袋から自分の煙草を、赤いラークを出してナイロンを剥いだ。なんて言っていいかわかんないから、ただ僕も煙草を吸うことにした。

「そのライター可愛い」

 僕は彼女のセブンスターに火をつけてやった。彼女は咳き込まないで、ゆっくり吸って吐いた。アメちゃんがさも当たり前のように煙草を吸うから、僕は何も聞かないで良かったのだと思った。

「黄色いいよね。そういえば、十四ミリで合ってた? 癖で重い方を買っちゃったけど」

「何でもいいの。メイド・イン・タイランドか、フリント式は最近めっきり見ないよね」

「フリントって何」

「ジッてヤスリ回して点けるライター。なんかイチロウ君って見た目の割にパッとしないな」

 彼女は躊躇わずにそう言った。いや、言ってくれるよね。でも図星なんだ。僕はつまらなくないし、うじうじしてるし、空っぽのまま。そんなことを言われると尚更、何が「だから、私、イチロウ君を見つけたんだよ」なのかわからない。

「でも、その長くて黒い髪、おしゃれっぽくないところが良いよ」とアメちゃんは言った。

「アメちゃんはいいよ。君は他のところにはいない」

「私は特別よ、だから自分で話しかける人も選べるの」

 向かいの歩道で手押し車に寄りかかって休んでいるおばあちゃんを眺め、僕は深く煙を吐いた。

その日、結局僕らは大して煙突を見なかった。どこを歩いていてもそれは見えたけれど、これだという煙突には出会えず、僕らは結局三石駅から三時間かけて県境を越え、兵庫まで歩いたのだ。優柔不断な僕にアメちゃんが付き合ってくれたようにも取れなくはない。

 上郡っていう次の駅まで僕らはただひたすら歩けた。線路に沿って歩くごとに煙突は減っていき、気づけば両脇は緑の丘陵、人は全然通らなくなった。車ばっかりの坂道を登って、排気臭いトンネルを抜けた。トンネルを抜けると彼女は坂を駆け下りた。それからはずっと山陽本線が左手に見えていて、僕らが歩いているうちにも一本だけ電車が行った。彼女は歩くのに疲れたり、文句を言ったりしなかった。田んぼの脇を歩いて、なるべく川辺を選びながら歩き続けた。僕らはとにかく川を見ながらお昼を食べようってだけ決めていたんだ。でも農業用水は田んぼの泥で濁ってて、お昼ご飯の向こうに眺めるには最適じゃなかった。歩きながら家族や生い立ちについてとか、そういうつまらない自己紹介的なことをもっと話した。僕が今、海外の大学を休学して日本に帰ってることとか、色々、そういう話なんかをした。

 僕は彼女の本質を見定めようとしたけれど、三時間の歩行のうちに彼女が先に僕を見透かした。しばらく歩くと大きな池があったけど、それは幾分陰気で、結局通り過ぎてしまった。

 僕らがようやくご飯を食べたのは上郡駅が目の前に見える安室川の河原だった。川がぶつかって蛇行する山のすぐ下で河原に降りた。僕はアメちゃんに言った。

「海外に行けば変われると思ったのにな。僕は余計寂しくなった気がするし、知らなくて良いことを知って、もっとつまらなくなった気がするんだよね」

 彼女は慰めるような顔はせず、すらすらと言う。

「それが分かっただけ成長なんじゃない。だって、変わったように勘違いして生活するよりはいいじゃない。今はプラトーよ、もうすぐ準備ができてイチロウ君は全く違うものになれるなら、それは凄くいいね」

 どうして彼女はこうも悟ったようなんだろう、僕はその日、何度も疑問に感じた。煙草を吸うからだろうか、いや、そんなバカな話はない。晴れていた空は、気づけば重い雲に覆われていて、いつ雨が降ってもおかしくない。

「ちょっと疲れてきたし、もう帰ろうよ」

「分かった」

立ち上がった僕は、彼女につまらない思いをさせちゃったんじゃないかって不安でいっぱいだった。

「次は、イチロウ君が卒業して日本に帰って来た時に会いたいな」

 彼女はそう言って、何も考えてないように曇った空を眺めていた。しばらく歩くと、アメちゃんは何かを見つけたように畑の畔に降りて、草むらをのぞいた。僕は彼女のさっき言ったことを頭で反復しながら、ため息をついて川の水を眺めて、ぼんやり。少しして、僕は振り向いた。横目に彼女が草むらから上がって来るのが見えたから。振り向きざま、ほっぺに小さな雨粒が当たったような気がした。

 暗い空の下に居ても、なぜか彼女はイキイキとしていた。どこか、悪いことを考えているようにも見えてた。踊るように、僕の方へ軽くスキップして、近づいて来るにつれ雨の気配は、実際の雨に変わった。体に当たる雨も、近づいてくるアメちゃんも、スローモーションのように把握できた。彼女のその手には、勿忘草の水色の花があった。それは、まるで飛沫のように滑らかに、それに火花のように鋭く、弾けるように光っている。僕の心はぐらぐらと振動した。興奮していた。どうしてなのかわからないけど、負けてはいられないって思った。すると、彼女が鋭い眼差しで、揺るぎない強い声で言った。

「反撥がいるのよ。思うままに反抗して、あたなはもっとめちゃくちゃに反逆しなきゃ」

 僕は唖然として、空を見上げた。雨は大粒になって僕の目や鼻や口に入って、喉を伝って胸を濡らしていく。アメちゃんは不敵に笑い、期待を込めて僕に勿忘草の花束を渡した。