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-CANDY- Candy Says 2章

(2019/06/04)

 藤が咲いてたんだけれど、と彼女は山の小道を歩いて僕に言った。夜行バスで来たんだ、こんな疲れてる人を誰が山へ連れていくんだよ、って文句を言いたくもあったけれど、山の小道でみる彼女も、僕の見ている景色も、この時間も素敵だった。花は咲いていない。散歩道の二十歩先では濃い霧が待っていた。僕たちは霧の中へ進んだ。

「雨と変わらないみたい」

 彼女の姿は霧の中だった。かろうじて見えるのは、自分の足元がまだ道を踏み外していないことだけ。歩いていこう。霧が晴れた先に素敵なものがあればいいじゃないか。

 彼女は歌を歌う。霧の先から聞こえてくるメロディに僕は耳を澄ます。この曲は知っているはずなんだけど、絶対にとても好きな曲で、大好きなはずなのに、誰が歌ってるかも、何て名前の歌かも思い出せない。彼女の声でその歌は聞こえる。サビを聞いて思い出す。Marquee Moonそれがこの曲の名前だ。僕はアメちゃんの声に耳を澄ませる。今日から彼女と一緒に住むんだ。歌が上手とは言いづらいけれど、僕は彼女が歌うのを初めて聞いて、嫌いじゃないと思った。耳を澄ませながら、待っている、彼女と過ごす日々を信じている。アウトロのギターを彼女が真似ている。霧は薄れていって、彼女は最後のフレーズを歌いきった。

 霧が晴れると、山の上から、遠く下方にある郊外の小さな町が見下ろせる。急な斜面の下にヤマフジが見えた。彼女はそれを取って来てほしそうな顔でこっちを見る。僕は首を振る。一緒なら、降りるよ、それにきっと持って帰っても綺麗な色じゃないから近くで見て忘れないでおこう、と言った。

 僕たちは二人で斜面を下って、ヤマフジの薄い色を鼻先で眺めた。雫は花びらにしがみついていた。僕はこの瞬間を忘れたくない。彼女と過ごした、あるいはこれから過ごす、他の全ての場面と同様に。僕たちは野生の藤を脳裏に抱え、電車で彼女の部屋のある場所へ帰る。わざわざ数時間遠回りした甲斐があった。僕はもう疲れてはいない。二人でゆっくり夜まで話し続けよう。