白みつつある空を背に彼女は車を飛ばす。トラックが抜かして行く。彼女は窓を開けてセブンスターに火をつける。煙は揺れる間も無く、朝の風がアメコの頬を撫でる。彼女はアクセルを踏んだ。テレヴィジョンをうるさく流して、エンジン音が聞こえないくらいまで。彼女は頭を揺らしながら飛ばす。重なるジャムが興奮を塗り、叫ぶ。一郎に初めて出会った日、アメコはまだ高校生だった。いつもと代わり映えしない通学電車で本を読むのにも飽きているが、鞄から英単語帳を出して読むのはもっと退屈だなどと考えているとき、彼女は初めて同じ車両に乗り合わせている一郎の存在に気がついた。彼は若い旅人だった。高校の三年間、彼女は毎日三、四十分の通学で何人もの人間と乗り合わせ、特に彼らについて思考をめぐらせもせず、ただ他人同士として、互いを知覚しないままに別れ続けた。三月のあの日も、彼女は電車の壁にもたれ退屈の中にぐったりと沈んでいた。紺色の制服に結ばれたグリーンのリボンだけが凛としていた。毎日、知らない男に舐めるように見られが、気味悪いとも思わないで、彼らは私に話しかける度胸もないのだと、一貫して見下していた。
一郎を見つけた瞬間だけ、彼女は敗北感のようなものを感じた。その外見は現代的でなかった、また日本的でもない。この言葉でも十分に説明できない。例えどの時代で出会っても、どの場所で出会っても、一郎に対して彼女はそのように思っただろう。彼のいる場所はその頃からノーホェア的だった。彼女は一郎のことを知りたいと強く願い、また同じくらい強く憧れた。元来、アメコは一目惚れなど、運命など、ないものだと思っていた。恋も結婚も、セックスも、何もかも妥協の産むものだとばかり思っていた。それが彼女の敗北感、悔しさのわけであった。一郎のような男、いや一郎のような人間は、この世に一人しかいないだろうと感じた。彼女が人間に対しそのように思ったことは、自分に対して以外では一度もなかった。
もし今ここで彼を捕まえてしまわなければ、彼はまたどこでもない場所へ消えてしまう、そのように彼女は感じた。機会が永遠に失われてしまう前に、アメコはその未来人、あるいは宇宙人のように見える彼にしがみつくのだ。
気づくとアメコは目の前に立って、彼を見下ろしていた。アメコは引き寄せられるよう彼の前へ行っていた。車両はいつも以上に空いていた上、一郎は熱心に本を読んでいたはずだ。前に立って見下ろしているアメコに気づき、一郎は見上げるように顔をあげ、目を合わせた。それは底なしの洞穴、深く、黒々とした瞳だった。たじろいたアメコは彼から話しかけてくれないだろうかと期待するが、そんなはずはかった。彼女はこれまで自分から男に言い寄ったことがなかった。もし電車が混んでいて、一郎の隣だけが空いていたら、話しかけやすかっただろうか、とも考え、そうだったとしてもきっと一緒だろうと思い直し、諦め、戸惑いながら、静かに隣に座った。
運命的な一目惚れは勘違いではなかった。そのような経験は彼女にとって初めてであり、その後にも一度もなかった。
緊張を噛み殺して、できる限り自信げな自分を装って話しかけた。ひどく深い、落ちると戻れない瞳に、負けないよう見つめ返しながら話した。当時を思い出せば、まずアメコが彼に非日常の冒険を提供したのだ。それが回り回って今彼女を動かしている。
太陽が背中を照らし身体を温め始めた頃、彼女は高速道路を降りた。いなくなってしまっても尚、自分にめちゃくちゃな人生をくれる恋人、アメコはまだ彼のことが好きだった。アメコはミラーに反射する朱い朝焼けを愛し、また、明日を想わないこの冒険
を愛し、川崎一郎という喪われて久しい人を愛した。彼女は一郎の亡霊を追っている。