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-CANDY- Candy Says 3章

(2019/06/15)

 せいぜい来週くらいには梅雨も明けるかという頃になって、僕らはようやく重い腰を上げた。十日以上経って彼女と暮らすことにも慣れてきた。一人暮らし用の部屋だが僕らはとても仲が良い。一つ問題があるとすれば、二人ともすごく引きこもりで年中こたつの冬熊。本当に、まだ何もしていない、どこにも行っていない、会話以外に何か他にしたかと聞かれたら言葉に詰まってしまう。

 梅雨も僕たちがのんびりしているうちは居座るつもりなんだろう。屋根から雨が滴っているのを窓越しに眺める。僕は、熱帯の雨季のことを考えながらぼんやりしている。唯一家から出る機会といえば、週に二度、僕とアメちゃんは一緒に閉店の五分前のスーパーに行く、そのくらいだ。ずっと横になって漫画を読んだりゲームをして暮らしている、そして、そんな人は半額の惣菜で何日も食いつないでいける。やっとアメちゃんが出かけようと言ったのはスーパーへ行った帰りだった。どこへ出かけるかは最初から決まっていたようなもので、僕らは、そう言った次の日にはもう電車に乗っていた。彼女が行こうと言った次の瞬間にはもう僕らは長いトンネルを抜けて高い煙突に囲まれていたような気もする。

 煙突の町とは岡山の三石という町だ。僕はあの場所を電車で通過している瞬間に彼女に出会った。そして一目惚れした。去年の春の話。初めてお互いを手に届く距離で知り合った時、僕は大学の三年生で、彼女は高校三年生だった。あの日電車で僕らは惹かれあい、数週間後三石でデートをした。三石はすべてが始まった場所と言える。だから、僕とアメちゃんにとってあの場所くらい思い出深い場所はない。今度は三回目の三石だ。次こそはちゃんと煙突を見たい。

 僕らは二人野球帽をかぶり、リュックサックを背負い、出かけた。電車に乗る前に、ホームセンターへ寄って、侵入に使うための工具を買った。そのときの彼女は、高揚感とは別に、何かと神秘を隠していた、ただ若いだけなのか、秒ごとに変化する魂の掴めなさか。たった一年見なかっただけで彼女の瞳には重さが増えていた、僕を引っ張り上げてくれそうな何か。二十分近く売り場をうろついて何を買おうか悩んでいた。結局、フェンスや南京錠を切断するためのクリッパーと言う工具と小さなペンチ、それから高いところへ登ることがあるかもしれないとロープを買った。ごみ箱に包みを捨て、道具をリュックに入れると、駅へ向かった。どのように侵入するかという点では、僕らは映画以外に参考にできるものを知らなかった。

 僕たちはこの日、煙突工場へ侵入するために三石に来た。何を目的に? 目的は煙突をもっと近くで見るため、自由に酔いしれるためだった。まあ、大した理由なんかないようなもの。ただ、気になったから入ってみるだけ。小規模の暴動を始めたら、どんな気持ちがするのか、それを見てみようと思う。

 三石の町は相も変わらず閑散としていて、曇り空を鳥が飛んでいく、町を挟んでいる丘陵を行ったり来たりしているのだろうが、町には目もくれない。川は流れているが地面に沁みるだけの水は余っていない。人もいない、この町には僕らしかいないみたいで、相変わらず寂れた街だった。

「なんだか、びくびくしていたのがバカらしい」と彼女は言った。リュックサックから大きなクリッパーを取り出すと、片手に持ってくるくる振り回しながら歩いている。リュックに入れていると背中に当たって痛いらしい。彼女のスキニージーンズにはプラスチックのダイヤモンドがちりばめられており、大げさに輝いている。ダイヤモンドの反射はこの町の静けさと彼女の華やかさを際立てる。彼女の小さな鼻は、楽しいことを探して嗅ぎまわっている子ぎつねの鼻だ。空は低い。飛ぶ鳥の羽毛は一枚一枚から見分けられる。手を少し伸ばせば触れられそうだ。また、僕たちはどんよりした雲をくまなく愛している。

 町を歩いて、侵入に一番良い煙突を探した。一番良い煙突の条件は、侵入のしやすさではなく、美しさだ、僕たちは感動を得たかった。煙突工場たちは何のためにこの町にあるのか。小さな町の端にある丘陵は大胆に削られていて、地層の幾何学模様をむき出しにしている。あれが採石場で、そこから取った石か何かを煙突で燃やしていたんだろう。僕たちは、煙突の高さ、焦げ茶色の染み、煤の汚れ、そんなのを秤にかけながら、最も美しい煙突を探求した。

 最高の煙突は、採石場があるものとは別の丘陵の中腹に佇んでいた。かつてはその斜面も採石場として使われていたのかもしれない。今では疎らに草が生え、断面に新鮮味はない。丘陵の森と採石された斜面の境界近くに工場は鎮座している、その美しさはまるで見捨てられた辺鄙な場所で、ひっそりとその風格を保った聖堂のようだった。煙突は、チェスの一番強い駒の様に堂々と、町の他の煙突を見下ろしている。丘を上がって、その煙突を目前にした時、僕たちは息を呑んだ。やはりこれが最高の煙突に違いない、と納得の表情で顔を見合せた。塔は時代の影を重く吸った暗い灰色だった。煤の滲みはとぐろを巻いた龍のレリーフ、細かい罅はアラベスクを織りなす。長い間この煙突は、塔らしく、遺跡らしく佇んでいたに違いない。何百年か、何千年か、何万年か、遠い昔からこの町の生活を見守っているのだ。僕らは足取りを厳かに。僕らは神聖な場所に立ち入ろうとしている。

 その偉大な建物の周囲に巡らされた砦、というより工場を囲う簡素なフェンスには、やはり弱点があった。扉に錠がつけられていないのだ。ただ、雑に針金が巻かれているだけだ。アメちゃんは持ってきたクリッパーをリュックに戻し、小さなペンチを取り出した。彼女は情けない小さなペンチを握り、とぼけた顔で僕を見た。僕は首を傾げ笑う。彼女は躊躇わなかった。

 彼女は神妙な面持ちでチェーホフのペンチを掲げ、残忍にグリップを握った。

「まあ、手でも外せるけど、せっかく買ったしね」と僕は苦笑いをする。

 フェンスの内側に入った。聖域に入ると、空気が変わった。神社に入るのと違うのは、その匂いが鋭い針葉樹の香りではなく、硬質な土と煤の匂いであること。僕らは疎らに生える草を踏んで一歩一歩、煙突のある工場へと近づいていく。煙突の前に立ち、見上げる。「まだ、遠いわ。これじゃ足りない」とアメちゃんは言った。

「中へ入ろう」と僕は言う。

 他の煙突にはまだ細く煙をあげているものもあったが、最も気高いこの煙突に関しては、もう煙を上げてはいなかった。放棄されてしばらく経っているように見える。工場の扉には南京錠がかかっている。工場の建物そのものも、目立つ煙突と同等に美しい。ガラス窓は割るには惜しい。くすんだ窓には時がこびりついている。裏口は内側から鍵がかかっている。

 入らないとどうしようもないので、仕方なく僕は横並びに立つ小屋の屋根によじ上った。そこから二階の窓を押すと、鈍い音を響かせてそれは開いた。埃だらけになりながら僕らは、やっと中に入った。窓の向こうはただの足場で、二階の床はない。広間が見下ろせる。工場の跡のようにはなかなか見えない。そのだだっ広い床には何も置かれていない。階段を使って一階におりる。やはり床にも埃が積もっている。僕らが歩いたせいで広間には新鮮な塵が舞っている。晴れ間からまっすぐに差し込んだ日光が、塵に反射して光線の軌跡を見せる。雨と埃でくすんだ窓はグレーのステンドグラスだ。

本当に、これは工場というより聖堂、聖堂そのもの、僕たちは今、人工的な神秘の中にいた。それはいかにも美しい景色だった。

「これ、絶対アメちゃんも好きだろ?」

「素敵。素敵。すごくデートって感じ。きっとこの場所は私たちを待っていたんだわ」

 僕たちは持参したレジャーシートを廃工場の広間の隅に敷いて、ゆっくりと時間を過ごした。水筒に入れてきた冷たいお茶を飲んで、感心して眺めていた。がらんとした広い部屋に自分たちだけがいる、それは心地の良い状況で、誰にも邪魔されず僕らは好きなだけここにいることができる。

 アメちゃんはふっと立ち上がり、広間の真ん中へ行き、窓の向こうを仰ぎ見る。翳り始めた日光の筋に見惚れていた。しばらく見て、満足したのか、彼女は次に床に屈んで、埃の上に指で何やら落書きをする。僕は彼女が何を描いているのか見たくて立ち上がる。彼女はとても幸せそうに、楽しそうに、床に向かっている。僕は見た。彼女が描いているのは大きな幾何学模様だった。正方形と円を基本とした、複雑な模様。チベットの時輪タントラに似た、曼荼羅? 彼女の内にある聖なる存在を描いた巨大な曼荼羅?

 煙草を吸いながら、アメちゃんが必死に、円と正方形の隙間に、細かい波や雫の模様を描きこんでいく様を眺めていた。彼女は一度も腕を休めず、その美しい文様を床に施した。

 手を払って立ち上がった彼女は疲れているように見えた。黙って僕の方を見つめた。あのアメちゃんの瞳、いつも僕に何かを顧みさせる澄んだ瞳。例えば、僕は何かに、特に人生そのものに、全力を尽くしていないのではないのか、僕は自分の正義感に正直に生きているのだろうか、信念はふやけたネギのようになっていては彼女につまらない思いをさせる、そう再認識する、一瞬目が合うごとに。彼女といると僕は間違えないような気持ちになる。

「煙を上げてやろうぜ。煙突の方へ行こう」

 通路には錆びられるだけ錆びた訳の分からない昔の工具が転がっている。壁にはカレンダー、その日めくりの暦によれば、この場所は戦後まもなく放棄されたことになる。煙突で僕たちは五、六本の煙草をしっかり煙にして、それで、持っていた紙類も全部燃やして、そして、僕らは煙突の底に座り込んで、靴下も燃やしてしまうべきかどうかを話し合っていた。

 アメちゃんは暇つぶしに土の積もった床を触っていたが、その土の下に蓋が現れたお陰で僕は靴下を燃やさないで済んだ。炉のようなものが置かれていたのだろう。それを退けた形跡があったが、その跡の下にある蓋は煙突が使われていた頃に使われていたよりも、もっと昔のものに見える。僕は靴下を履いた。

 アメちゃんは興味津々に、周りの土を必死に脇へ除ける。僕たちはせーので木の蓋を引っ張り上げた。暗い穴には梯子が掛けられていた。まずマッチを落としてみた、ガスが充満していたら僕らは吹き飛ばされて粉々、でも大丈夫そう。次に懐中電灯で照らし、目に見えて危険というわけではないことを確認し、僕たちは降りた。細く伸びた通路の先までは懐中電灯の光は届かない。この地下道は何のために作られ、誰によって使われていたんだろう。

「とりあえず気が済むまで進んでみようか」