表紙へ

クレスト 二章

七年の始め、溺れ溪での思い出

 レ・キンがヤキ・ナリブレトに出会ったのは十四歳の頃だった。秋宵の翠巴川埠頭で一人波の音を聞いていたレ・キンの隣に彼女は静かに腰を下ろした。重たい瞼と大きな瞳で顔を覗き込みながら、ヤキ・ナリブレトは学生だったレ・キンに優しく話しかけたのだ。彼女はレ・キンより七つ年上で既に海風の巣に通っており、当時から夜中、海風の巣からの帰り道に南の埠頭に寄ることを習慣にしていた。
「どうしたの?見ない顔ね」
「見ない顔って、あなたはガートに座りこんで見えない波を睨む人をみんな覚えているの?」
「ええ。よく来る人はね。大体はこの埠頭が好きで、週に一回は来る人たちよ。そんなに大勢じゃないから覚えられるわ。そういう人には話しかけない。彼らは一人で海を見るのが好きな人だからね。初めて見る人が居たらその後ろ姿を私は見つめるの。そうすれば、その人がただ気が向いて海を見に来て夕日の余韻に浸っているだけの人か、何かを思い出す為にこの場所に来た人か、空っぽになって地面の突き当たりまで来ちゃった人なのかわかるの。人は、表情や言葉だけでなく輪郭でも語ることができるのね。それを汲み取れる人はそう多くないみたいだけど」
「僕はどの人に見えたの?」
「空っぽの人間よ。あなたはきっと、夕日を見ても何も感じなくてどうしようもなくって今までぼうっとしていたんでしょう? そうね、仮に今、私が大金をプレゼントしても、美味しいものを食べさせてあげても、あなたは何も感じないんじゃないの?」
「そうかもしれない」
「そんな人を見たら私は必ず話しかけようと思ってたの。気づいてあげられる人は多くないからね。お話しましょう? ここがいい? それとも美味しいものが食べられる場所がいい?」
 彼女はまるで自分がそうであったかのようにレ・キンのことを理解していた。知らない人を相手にした方が上手く話せると知って彼女はレ・キンに話しかけたのかもしれない。親しい人に何もかもを打ち明けるのには勇気がいる。自分の弱いところを近い人に見せたいと思う人は多くないからだ。レ・キンが黙っていると、ヤキ・ナリブレトは「私はお腹が空いてるの」と言って彼をお気に入りの食堂へと連れて行った。
 それが彼女との出会いで、その日レ・キンは彼女に全てを打ち明けたのだった。つい一ヶ月前、十四歳のレ・キン少年は山の斜面を転落し大怪我をした。左腕が全く動かなくなり、右腕にも後遺症が残っていた。医者はその傷を一生治らないだろうと彼に言った。だが、レ・キンにとってもっと悲しかったのは、事故の時に散歩していた犬がどこかにいなくなってしまったことだった。犬が帰らないと入院中に知った彼は病院を抜け出し山へ探しにいったが見つかることはなかった。左腕に残った傷や後遺症のせいで余計に犬のことが忘れられず今日まで、毎日探しに出かけていたのだった。学校へもあまり行かなくなり、気づいたら友達もいなくなっていた。家族は気遣ってくれるけれどその分だけ彼は申し訳なくなってしまう。今日レ・キンは御杜冶マを探して帰りに埠頭に寄ってぼうっとしていたのだと、全て彼女に説明した。自分の苦痛を嘘をつかず、強がらず全て話したのはこれが初めてだった。
 ヤキ・ナリブレトは当然、ただ犬がいなくなっただけではないかと言いはしなかった。彼女は、些細ことなきっかけでも、心の中に長年積もってきた全ての負の感情が、忘れていたようなものまでも全て、水底の泥ように舞い上がることがあると知っていた。
 もちろん、犬を弟のように可愛がっていた一人っ子のレ・キンにとってそれは些細なきっかけではなく大きな喪失だった。そして、彼は左手に不自由さを感じる度に、そこに傷跡が見える度に、一人の家族を失った悲しみをはっきりと感じるのだ。両親は忘れなさいと言い、新しい犬を買ってあげようとも言った。レ・キンは両親の気遣いに感謝はすれど、救われはしなかった。彼は何も見えない、何も感じない、そのような日々を送っていた。
 ヤキ・ナリブレトは「眠れないんでしょう?」と優しく尋ね、レ・キンは黙って頷くと、頬を伝う涙を左手で優しく拭った。そして、レ・キンに言ったのだ。
「あなたの心は大きな硝子のバケツなの。あなたの過去の感情を泥だって思ってみて。何歳なの? 十四年間、それだけ長い時間経つとちょっとずつに見えてもね、バケツの底には何センチも泥が積もってる。それがかき混ぜられると泥は舞い上がってあっという間に水は濁る。あなたは心を通して何も見えなくなってしまうの。泥は一瞬で舞い上がるけれど、積もるには時間がかかるでしょう? 私、思うんだけど、あなたきっと待てないと思うの。底に泥がまた積もる前に、放り出しちゃって硝子のバケツは粉々に砕けちゃうと思う。だから、私が少しずつ水を入れ替えてあげる」レ・キンはほとんど黙ったままそれを聞いていた。
 彼は光も一切届かない冷たく濁った水の中で過ごしていたのだ。その次の日からレ・キンは数日毎にヤキ・ナリブレトと会うようになった。いつも同じ時間、夜の十時から十一時の間に南の埠頭に行けば海を眺めているヤキ・ナリブレトに会うことが出来た。夕方からずっと色を変えながら波打つ海を眺めて彼女を待つ日もあれば、慌てて十一時前に走っていくこともあった。彼女は十時を過ぎて埠頭に来ることもあったが、必ず十一時までには現れたし十一時まではレ・キンを待った。会うとヤキ・ナリブレトはレ・キンとガートに腰をかけて彼女の持ってきてくれる夕食を食べながらさざ波を眺めた。
 会い始めて二ヶ月ほど経った頃だった。その日、ヤキ・ナリブレトは珍しくレ・キンと昼過ぎに待ち合わせていた。彼女がレ・キンを或るところへ連れて行くと言い、何度尋ねても彼女は行き先を教えないのだった。
 レ・キンは連れられるまま町の南のはずれを流れる翠巴川の上流へと歩いて向かって行った。山と丘の間を川は細く激しく流れていた。木々の紅葉がとても綺麗な季節だった。十一月だったがこの土地はずっと暑いままで、それでも紅葉は美しかった。彼らは紅葉眺めながらお昼ご飯を食べ、少しくつろいだ。二人で話をした。
 二ヶ月、ほとんど毎日のように話していたお陰でレ・キンの心は落ち着き始めていた。少しずつ学校へも行くようにもなっていた。しかし、どうしても今までのようにすることはできないようで、彼は未だに眠るたび悪夢を見た。斜面を落ちる夢、怪我をする夢、犬を探しているうちに迷子になってしまう夢、犬が山で死んでいるのを崖の上から見つける夢、いろいろな種類の悪夢を見た。犬が帰ってくる夢を見たこともあったが、それはただ起きたときに悪夢が始まることを意味しているに過ぎなかった。レ・キンはそういったことを彼女に話した。彼女はそうかと聞き、慰めもせず、忘れなさいとも言わず、ただ頷くのだった。
 レ・キンにとって最も酷いのは左腕の怪我を見たときに起きながらぼうっとしてしまい悪夢を見てしまうことだった。それは、いわゆるフラッシュバックと呼ばれるもので、彼の目には本当の世界が映っているはずなのに、頭の中には過去の厳しい記憶が渦巻いて、口も聞けずただ驚いたような顔で目を見開いていることに気づかないまま時間がすぎて行く。誰かが彼の肩を叩いてようやく、彼は夢から覚める。現実と融解した夢、起きたまま見る夢から覚めるのは簡単ではない上に、覚めてから残る恐怖やトラウマは普通の悪夢と比べられるようなものではないのだ。
 満足がいくまで休んだら、彼女ははまた立ち上がり東へと歩き始めた。丘と山に挟まれた川沿いの道は日陰で、町にいるよりは涼しかったもののレ・キンの服は汗でぐっしょり濡れていた。
 川に沿って東へ上がってしばらくし二人は分かれ道に当たった。奥で翠巴川が大きな渦珠川から分流してこちらへ流れていた。渦珠川は雚見ヶ丘にぶつかって霧川と翠巴川に別れ、溺れ溪の海に注ぐのだ。その分流点の向こうには鬱蒼とした木々、鹿鎚の山々があった。ギボンザルの鳴き声がコーラスのように水音を越えて来る。
 二人は川を逸れて北へ進んだ。数分で二人は雚見ヶ丘の裏側へ続く桃の果樹園の中を進む小道に入った。桃園の中に続く未舗装の細い道には二輪車の轍が深く刻まれている。土の上には這うように植物の根が伸び出ている。高いシソ科の高木は果樹園の伐採されずまばらに残って塔のように桃園を見下ろしており、林床のところどころでは星のような形の鋭い棘を持つノイバラが生えていた。それはこの地が果樹園になる以前深い森であったことを語っていた。果樹園は雚見ヶ丘の西側の斜面のなだらかな部分に広がっていた。
 朝日デルタは桃園の中ほどにあった。朝日デルタもまた、海風の巣と同じように何かを作る者たちが過ごす為の場所で、やはり海風の巣と同じようにそこにも数名の若者が集まっていた。朝日デルタ、地名そのもののような名前でその工房が通用する理由は、この三角地帯の全面を桃の果樹園が覆っており、そこにある名の必要な建物が朝日デルタのみだったからである。桃園の農家も、朝日デルタに集う人も皆、雚見ヶ丘の上に住居を構えていた。
「シグ・ナは来てる? 仕事頼みたいんだけど」とヤキ・ナリブレトが言う。
 海風の巣にはのどかな雰囲気があったが、朝日デルタはその対象的な印象の場所だった。より静かで落ち着いた場所で、まっすぐな目をした人の多い。北の山脈から吹き降ろす湿った冷たい風を纏ったような場所だったが、決して暗くジメジメしているというわけでもない。快活にして正確だった。
 朝日デルタは硬く精悍な山風のような場所だった。
「今ちょっと取り込んでて、奥の部屋。一人で何かしてるよ。ここでお喋りでもしてようか」  
 レ・キンとほとんど年の変わらないくらいの女の子が出てきて言った。この少女は長い髪を鮮やかな色に染めていた。
 深い青から濃い紫や淡い青緑へ髪全体が自然に混ざり合うような色に染められており、そこにポツポツと紅色や橙色、黄色などのアクセントの粒が瞬いているのだ。それはレ・キンの知らない世界のようで不思議な色だった。
「シグ・ナは当分出てこないと思うけど。私は五時から六時の間には出てくると思う、賭ける?」
「何も賭けないし夜中まででも待てるわ」とヤキ・ナリブレトは言った。
「そんなに待つんだったら私がしてやってもいいんだけど、まだ頼れない?」そういうリュクスム・シーミリエンという少女にヤキ・ナリブレトは首を振りながら心配よと笑った。
 リュクスム・シーミリエンとシグヴィアール・ナルクジュープは、ヤキ・ナリブレトの幼い頃からの友達だった。三人の生まれ育った場所は町の深西部、媚嗚手山が峻厳と傾斜を持ち始める麓、ちょうど脇の道の突き当たりの部落だった。若い家族が少ない上に家同士の離れていることがあって、都市が離れていても兄弟のように仲がよかったのだ。ヤキ・ナリブレトにとって、シグヴィアール・ナルクジュープは兄、リュクスム・シーミリエンは妹のようなものだった。
 リュクスム・シーミリエンはレ・キンを紹介されると、得意げに自分が作る物を語った。いつも子供と扱われていた彼女は自分より年下のレ・キンに会い少し格好をつけたくなったのだろう。彼女にしても、シグヴィアール・ナルクジュープにしても、本業は絵だったのだが、刺青を彫ることや髪を染めることも出来たし人の家の壁を塗ったりもした。兄貴分であるシグヴィアール・ナルクジュープは一人前で町でもよく名の知られた絵描きだった。少女はいつも彼について回っていた為、まだ若かったが優れた技術を持っていた。当然彼女はシグヴィアール・ナルクジュープと比べられることをひどく嫌っていたがその心配はなかった。彼女の創造はシグヴィアール・ナルクジュープのものとは全く異なる方向で輝いていた。それはシグヴィアール・ナルクジュープ自身が羨むほどのものだった。歳のせいでまだ依頼を受けることはできなかったが、絵を売ることは許されていた。彼女の絵はよく売れた。
 ヤキ・ナリブレトがどうして朝日デルタではなく海風の巣に通うことにしたか、リュクスム・シーミリエンはその理由も語った。ヤキ・ナリブレトは自らの彫刻が二人に影響されることを恐れていたのだという。彼女の直接的な影響を嫌う性格は幼い頃から変わらずあり続けていた。少女の知るところではないが、ヤキ・ナリブレトも彼女と同じように、いやそれ以上にシグヴィアール・ナルクジュープと比べられることを恐れていた。それで彼女は一人、朝日デルタへ行かず、当時若者の誰もいなかった海風の巣に来たのだ。
 もちろん若かったヤキ・ナリブレトは遠くない将来に自分が町で一番の彫刻家になると思ってもいなかった。
 妹分であるリュクスム・シーミリエンとヤキ・ナリブレトが活き活きと話すのを横で眺めながらレ・キンも気づけば、自分も何かを作る人になりたいと強く思うようになっていた。しかし、話を聞いて自分の中にある創作に対する意識が活性化されたわけではないようだった。
 レ・キンはただ話を聞いている間中ずっと、自分とほとんど年の変わらぬ少女の、その鮮やかな髪は何を思いながら染められたのか、とを想像していただけだった。
 ふと、その髪が夜の世界に浮かび上がる町の夜景のなのかもしれないと考えが頭をよぎった。その考えがよぎり、過ぎ去った後、レ・キンの頭の中に自分がただ何かを作るべき人間なのだという主張が常識のように佇んでいたのだ。
「リュク・シー、私たち二人に何か美味しいもの買ってきてくんない?ちょっとお腹空いちゃった」ヤキ・ナリブレトは退屈に耐えられず少女に愛想なく頼んだ。
 面倒臭そうではあるものの快く承知した少女を見ると、二人が長年の付き合いで息のあった会話をしていると分かった。
「どうしてヤキ・ナはいくら食べても太んないの! おかしくない? 小さい頃シグ・ナによく文句言ってたけど、あいついっつも、二十歳過ぎたらどんどん太ってくよって言ってた。で、今ヤキ・ナ何歳? 二十一でしょ! どう考えてもそれはズルい、あと倍は食べさせてあげるよ」そう言うとリュクスム・シーミリエンは朝日デルタを飛び出して行った。
 木の扉は、少女が出て行ったあとに低い音でぎぃと唸りながら閉まった。裏手でエンジンの唸る音がしたかと思うと原付に乗った彼女が出てきた。何となくその姿が滑稽でレ・キンは笑っていたが、窓の向こうで手を振って出発した彼女の原付はでこぼこの道を跳ねながら走っていくものだから、ヤキ・ナリブレトも一緒に大笑いして、遠くに原付が見えなくなるまでレ・キンとヤキ・ナリブレトは笑っていた。
 やっと、シグヴィアール・ナルクジュープの部屋に入れてもらったときもう六時が回っていた。そこでヤキ・ナリブレトは彼の耳元で依頼の説明をした。何を頼むかはレ・キンにも聞かせていなかった。
 ヤキ・ナリブレトは黙ってレ・キンの前まで来て、左腕の長袖を捲り上げて彼に見せた。そこには新しい跡があった。細い傷痕だった。
「最近、手術をしたの。レ・キンのよりはちょっと小さいけど、一緒なの」
「ほんと? ヤキ・ナ病気だったの? 大丈夫?」
「なんともないの。せっかくだから、この傷、お揃いにしてもらいたいわ。左腕にお揃いのマーク、悪くないでしょ?」
「何言ってるの。僕のはかなり大きくて酷いんだから」
「傷痕はもうあるんだから一緒みたいなものよ。シグ・ナに型とってもらうから左腕貸して」
彼女は自分に必要のない傷跡をつけようとしているのだ。レ・キンはそのまま机に引っ張っていかれ、シグヴィアール・ナルクジュープはほとんど言葉を発さず、黙々と傷の型を取った。
 一時間後出来上がったヤキ・ナリブレトの左腕にある傷はレ・キンのものと全く同じ形をしており、傷口の痛々しさより正確さに対する感動の方が勝るほどだった。だが、リュクスム・シーミリエンは覗き込んで、二人の傷を見比べると、「これは完全に一緒とは言えない」と言った。確かにそれもそうだった。
 浅黒いレ・キンの肌にある傷痕と、白いヤキ・ナリブレトの肌にある傷痕は全く違う色をしていた。
「待っててね」と言って部屋を出て言ったリュクスム・シーミリエンは金属の粉が入った瓶を持って戻ってきた。
「これで傷痕を埋めるようにしたら素敵だと思わない?」と少女は提案した。
シグヴィアール・ナルクジュープはできるかもしれないと言った。要するにレ・キンの傷も完全に覆ってしまうということだった。
 ジルコニウムが埋め終わった時、丘の上の塔から鐘の鳴る音が聞こえた。日付が変わったのだ。ヤキ・ナリブレトとレ・キンは左腕の同じ位置に、同じ色のジルコニウムの印を持った。
 レ・キンのトラウマは友人との思い出に変わった。素敵な銀色の裂け目はいくら見つめても彼に恐怖を感じさせはしなかった。レ・キンはうっとりとしたまま長いことそれを眺めていた。
 「これに色をつけたりはできないかな?」と最後、レ・キンは少女に頼んだ。
 レ・キンは今日初めて、いやあの事故が起こって初めて、何かを自発的に行おうとした。
 シグヴィアール・ナルクジュープは「もう疲れたから俺は彫らんよ」と言ってロッキンチェアーで半分眠っている。ヤキ・ナリブレトが「私が彫るわ」と言いレ・キンにどんなものを描いて欲しいのかと尋ねた。
「夜の海、深い藍色のさざ波、ちらちらと月明かりに仄めく波頭、風、僕らがよく埠頭で眺める海のような、」と彼は頭にある全ての言葉を繋げて精一杯説明しようとした。
 ヤキ・ナリブレトが人の言ったものを彫ったのはその生涯でこれが最初で最後だった。彼女は軽くノートにスケッチのようなものを描いてから、その後じっくり時間かけて自分とレ・キンの左腕に全く同じ模様を彫り込んだ。
 幾何学的にも見えるがそれは本物の海を表現していると誰が見てもわかるような模様だった。海を知らない人が見てもわかるほど適確だった。リュクスム・シーミリエンが金属を酸化させて色を変えるための液を調合して運んできた。液体は色ごとに別れていたがどれも透明で塗りながら色を確認することはできないようだった。後に塗る色が強く出ると少女は言った。レ・キンはよくわからないまま見ていたが、ヤキ・ナは器用に透明の絵の具を重ねていき、ほんの十分か十五分でその傷に描かれた海の幾何学模様に、色を塗った。
 少女が表面を燃やして色の膜を定着させると、金属の表面には美しい藍色が浮き上がった。ジルコンの印は角度を変えるごとに色を変え、模様を変えた。或る時は鏡面のように平らな静かな海に見え、穏やかな揺れるような水面が見える時があり、さざ波が起こりもする、稀に荒い波が見える角度もあった。レ・キンの知っている全ての藍色が一つの深い水面に光っているようで、それは、夜だがよく澄んでいるのがわかるほど美しい濃い青色の空が海に色を落とし、その中に銀色の月明かりが射した時にだけ見られる藍色だった。