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クレスト 終章

新しい七年、溺れ溪再び

 二年ぶりに溺れ溪に戻ることになったレ・キンは希望に胸を膨らませていた。しかし同時に、町に戻ることに対する不安は大きかった。そして、その不安は町の影が遠目に見え始めたあたりから本格的に大きくなった。
 レ・キンが、直接船を海風の巣につけてくれないかとワイ・トゥレに頼むと、もちろん構わないさ、と彼は言う。町の建物が見えるほど近づいた頃、船が湾内に入った時に不安は穏やかに静まった。海風の巣が見えた時に彼の不安はすっかり消えてしまい、肩のあたりまで髪が伸びているドラド・ハユィヒシが堤防の上で煙草を吸っている姿が見えた時、彼はそこに残っているものが何もかもが二年前のままであると気づいて、安心からか涙を流した。
 船を操っていたワイ・トゥレにも当然、感極まるものがあったには違いないが、彼はただドラド・ハユィヒシとレ・キンの再会を邪魔しない為だけに、自分の視界を霞めることを許さなかった。ドラド・ハユィヒシは泣いていたが、船が近づくと急いで拭った。ワイ・トゥレが船を杭に結びつけるより先に、レ・キンは堤防の梯子に飛び移った。
 ドラド・ハユィヒシは彼を助けようと慌てて手を伸ばしたが、レ・キンの両腕が動くのを見て、白く長い左腕を見て、拭いたばかりだった涙はまた溢れてしまった。登りきったレ・キンに抱擁され、ドラド・ハユィヒシは手伝おうと思い伸ばした手をそのままレ・キンの背中に回した。ドラド・ハユィヒシは髪だけでなく髭も伸ばしていて、そのせいでレ・キンは笑った。坊主頭の克己的な青年だったドラド・ハユィヒシは今では成熟した余裕を見せていた。二人は涙を拭いて、お互いに笑い合い、久しぶりだ、元気そうじゃないか、と声を掛け合った。二年前の最後に話した日は古い記憶から生活の続きへと変わった。
 外観はほとんど変わっていなかったが、海風の巣の中に入ると変わっているものの方が多かった。部屋には物が減り、広くより開放的に感じられた。海辺の日差しのような記憶をレ・キンは持っていたが、それはまさに海に吹く風のようながらんとした場所に変わっていた。そこに通うのは、ドラド・ハユィヒシとレ・ニのたった二人になっていた。
 ヤキ・ナリブレトと、ダャ・ロプシー、ドラド・ハユィヒシ、そしてレ・キンの四人がのんびりと通っていた頃の雰囲気は一見ほとんどなくなっていた。二年前、レ・キンは部屋の真ん中を区切るように置かれた長い机の入り口側を自分の場所にして作業をしていた。机の入り口側には窓があり太陽の光がよく当たった。彼の背中側の空間には小さな机があり、ワイ・トゥレなんかが来たら、いつもそこで茶を飲んでいた。
 長く大きな机のレ・キンの正面にはダャ・ロプシーが書物をする場所があり、そこはレ・キンのいるところに比べると暗かった。ヤキ・ナリブレトは机の向こうの海側の壁の前でいつも金属に彫刻刀をたてており、ドラド・ハユィヒシはテラスに出る大きな窓の前で絵を描いていた。
 二年前、四人が揃うことは多くなかったが、仮に誰かがいない時にも、その人の気配は消えることがなかった。綺麗に片付けられていても、常に彼らが作業をしたところには空気の塊のようなものがいつでも残っていた。
 だが、二年という歳月はその気配をも消し去るに十分な時間で、彼は一見何もかもが変わってしまったように感じられた。
 今では長い机は横向に動かされ窓際に寄せられていた。ドラド・ハユィヒシは相変わらず同じ場所で絵を描いていたし、ヤキ・ナリブレトの使っていた場所に荷物が重ねられている訳でもない、しかしその空気感は変わっているように感じられる。レ・ニはほとんど部屋の真ん中に陣取って灯りを作っていた。
「久しぶりね。元気だった?」
「もちろん。君の方も相変わらずだね」
レ・キンは、唯一、二年前と同じ場所にあるワイ・トゥレ用の小さな机の椅子を引いて座り、部屋を眺めた。
「腕の調子はいいのか?」
ドラド・ハユィヒシは彼のそばに来てレ・キンの浅黒い肌とは異なる色をした左腕に触れた。白く長い腕は静かに震えた。二年前と違い、レ・キンは左腕を隠さないようになっていた。藍色の金属光沢を持つ傷跡ももう隠されておらず、思い思いに彼の左腕で反射していた。
「正直言って、左腕は利き手の右腕より良いよ。器用に細かいこともできる。僕は今じゃ両利きだよ」
彼はそう言いながら、話をそらすように鞄から拉蘇島の写真を取り出した。ドラド・ハユィヒシはそっとレ・キンの左腕から手を離した。
「手紙ではこれはまだ送ってなかったと思うんだ」
「拉蘇島での暮らしはどう? 心配してるのよ。私たち火山なんて見たこともないし」
レ・ニは一枚一枚の写真を手に取り、再生されつつあるレ・キンの新しい町を眺めた。
「最初に送られてきた焼け焦げた町の写真を見た時には驚いたぜ。それが今ではなかなか綺麗になってるから凄いよ。行ったばっかの時はやっぱし焦げくさかっただろう?」
「そもそも溺れ溪とは匂いがかなり違うけど、別に焦げ臭いわけじゃないよ。でも火山の匂いってのがあるんだ。初めは苦手だったよ。鼻を突くんだよ本当に。ていうかさ、僕がここにいた時に受け取った写真ってただ黒い山や変な植物、螢光の黄色の水が流れる川の傍にある町並み、そんなもんだったじゃない? それが行ったら荒地だよ。そりゃ、すんごく驚いたね」
「噴火の後、みんなはどこで過ごしてたんだよ?」
「海の上さ。町から離れたところに小さなサンゴ礁の島、島と言っても陸はないただの浅瀬。そこに筏の家みたいなのを仮設して、その上に暮らしていたんだ。町の跡にはまだ人は戻っていなくて、時々、大工とかが様子を見にいってるくらいだった。元々そういう避難の知恵は受け継がれていたんだ。だから噴火で怪我人は出なかったらしい。あの町ができたのは百年も昔のことではなかったらしいんだけど、長い間噴火がなかったから人はあそこに愛着を持って、町を作ってしまった。百年は人が根付くに十分な時間だよ。今の島の生活にとってあの町での文化や思い入れは簡単に捨てられないものになっていた。だから彼らはなんとか町を再建しようとしたわけなんだ。そして出来つつある新しい町に彼らが抱いている希望は、今や僕自身にも根付こうとしている」
二人は感心したようにレ・キンの話を聞いていた。ふとドラド・ハユィヒシが立ち上がって、言った。
「テラスで話さないか? レ・ニも。良いだろう?」
「煙草を吸いたいんでしょう?」
「風下で吸うから許してくれよ。お茶は俺が準備する」
 レ・キンは立ち上がりテラスまで歩く途中、かつてヤキ・ナリブレトの作業していた場所の前に立ち止まった。レ・ニは彼の背中を眺め、声をかけずに一人外へ出た。
 レ・キンは少しの間、ヤキ・ナリブレトがタンタルに自らの姿を彫っていた姿を思い浮かべようとした。しかし、床の木目にも、壁にもほとんど何も彼女がここにいた痕跡はなかった。壁際の天井に紫の電球が下がっているのを見つけた。それは彼女が夜作業をする時につけていたものだ。レ・キンは外して持って帰ろうかと思ったが、きっとここにあるべきだと考え直した。きっと夜に電球を点けてこの部屋を見たら懐かしいものもあるだろうと思いながらテラスへ出た。テラスに出ると、堤防の向こうから波の音が聞こえ、隅に転がっているバケツはワイ・トゥレがタコのゴオグをくれた時に一緒に渡したものだった。
「レ・キンもあいつから手紙、受け取っているんだよなあ?」
 ドラド・ハユィヒシは緑茶のやかんとコップを盆に乗せて運んできた。彼は自分で注ぐよう仕草して、堤防に腰をかけて煙草に火を点けた。
「もちろん受け取ってるよ。寝る前に毎日読み返してるくらい」
「彼が町を出たのはレ・キンが行ったちょうど一週間後だった。去年、一回戻ってきたよ」
「元気そうだった?」
「ああ。よく日に焼けて、たくましくもなっていた。笠をかぶっておかしな眼鏡をかけているのを見たとき、初めは誰だかわからなかった。ダャ・ロプは変わったよ。それに比べて、君は変わらないな」
「そうかい? 僕は変わらないでいたいんだもの、嬉しいよ。ダャ・ロプに会うのが楽しみだ」
「渦珠川沿いの細い山道を上がって行くと大きな町があるなんて君は想像したことがあったかよ? まさにダャ・ロプらしいよな。レニエタにも登ったって言ってるし。この町の地理を書いた資料も送ってきたじゃないか? 彼はやるよ。レ・キン、君もだ。もうほとんど建築家なんだろう? 俺たちの知らない遠くの島で町を一つ創っているなんて、素晴らしいじゃないか。俺はずっとここで気ままに絵を描いている。時々、君らがいた時の方がいいものを作れてたんじゃないかって思う時だってあるんだぜ?」
「見せてくれよ。正直に言うよ。ダメになってるようなら、ダャ・ロプの町に行った時に、そのまま置いて帰ろう」
「それがいいわね」
「冗談はいいんだよ。俺は本気で悩んでいるんだ。でも、絵は見せるよ。正直な意見も聞きたいし。あぁ、冗談じゃないかもしれないな。ひょっとしたら、本当にその町に俺は残っちゃうかもしれないな」
「私は一人になるの嫌よ?」
「冗談で終われば良いって願っててくれ」
ドラド・ハユィヒシとレ・ニ、レ・キンの三人は明日の早朝からダャ・ロプシーの住む山の向こうにある町、青雲(アズモ)に向かう。
 渦珠川に沿って続く細い道を三日ほど辿ればその町に着くと、手紙で彼は教えてくれた。距離はあるが対して過酷なものではないらしい。二日目には、山中を蛇行する渦珠川からその道は別れ峠道へ続くようになり、その、夜昼峠を越えれば青雲の町は見えるだろう、と書かれている。地図はない。ダャ・ロプシーは地図がなくとも来られるくらいわかりやすいと彼は強調している。蚊に刺されるとひどい病気にかかるかもしれないから、風が気持ち良くっても決して半袖にはならないこと、獣は山犬やギボンザルだけではないので夜は火を絶やさないこと、これだけ守るようにと書かれていた。
 溺れ溪を出たことのないドラド・ハユィヒシとレ・ニはもちろん、レ・キンも、知らない町、ここより大きい町を思い描くと、胸がときめいた。
 三人はテラスで波の音を聞きながら思い出話に花を咲かせ、その後電気屋に行きイルノ・コチラットにも挨拶をした。彼女は彼の作る町並が出来つつあるの写真を見て大いにレ・キンを褒め、喜んだ。
 帰りに、今晩は自分たちも海風の巣に泊まろうかとレ・キンに提案する二人に、彼は一人で過ごしたいと告げた。各々は家へ帰り、レ・キンは懐かしい道を通って海風の巣へ戻った。
 ヤキ・ナリブレトのかつて使っていた電球はまだ生きてた。スイッチをパチンと押すと、淡い紫の光は灯った。彼は入口のそばに行き部屋の大きな電灯を消し、その紫の裸電球の光だけを残した。淡い紫の光は、光であるにも関わらず闇を強調し、彩っているように見えた。
 その光の中にいれば、レ・キンはヤキ・ナリブレトのことをよく思い出すことが出来た。いなくなってしまった彼女を思いながら彼は一人で夕食を食べた。
 夕食を済ませると彼は、ヤキ・ナリブレトの残していった荷物から見つけたあの懐中電灯を持って一人で翠巴川埠頭へ歩いた。霧打ちの岩に砕ける紫の海螢、霧川の澄んだ河口、何も変わっていなかった。賑やかな霧川埠頭のチャイハネ広場でお茶と飴を買って歩いた。彼女が今もいるような気がした。
 左のポケットから飴を取って食べると、飴が含む自分の体温に彼は気づく。ハッとして頬を触れると、その左手は冷たく、彼を安心させた。
 相変わらず翠巴川埠頭は静かで、水銀灯の下でカード遊びをしている子供の顔ぶれは変わっていたが、その風景は凡そ同じままだった。彼はさざ波に反射して散る月の光を見て懐かしさに浸った。胸の中を何かがせり上がってくるような気持ちに我慢が出来ない。何を我慢しているのかもわからないまま、彼は胸を感情に圧迫され続けていた。
 レ・キンにとって、ヤキ・ナリブレトとの最後の思い出はこの埠頭だった。彼が海風の巣を、溺れ溪を出て拉蘇島へ行く二日前の夜は、彼女とここへ来た最後の夜だった。
 また、それは、ヤキ・ナリブレトの生きていた最後の時間で、もちろんそれはいつものように二人にとって幸せなゆっくりとした時間だった。その後のことを彼は覚えていない。彼女は死んでいた、レ・キンは次の日を丸々病院で過ごした。
 彼の身体は一日で治るはずがなかったが、ひとりで生き残った彼にはそれ以上この町に留まることができなかった。
 ワイ・トゥレとの約束の日、彼は夜明け前に病院を抜け出し、何も知らない彼に偽りの微笑みを向け、船に急いで荷物を乗せた。元々レ・キンには持っていく荷物もほとんどなかった。水筒やコップだけ、ヤキ・ナリブレトのまとめていた荷物に押し込んで、割れないよう彼女の衣類でくるみ船に乗せた。タコのゴオグを乗せ、彼は船に乗り込んで、ただ彼女は来ないことになったとだけ言い船を出してもらったのだ。
 二年前、彼は一度も振り返らずに溺れ溪を去った。
 レ・キンが左腕を完全に失った瞬間、ヤキ・ナリブレトはまだ生きていた。息も絶えかけていたが、空気の混じったか細い声で最後に「私の腕を使って」と言い、静かに目を瞑った。
 レ・キンは彼女を右腕に抱いたまま、唖然としていた。ただ血の出ているヤキ・ナリブレトにもう一度気づいて、慌てて、病院へ向かった。まっ暗い道をレ・キンは彼女を片手で抱えて歩いた。医者はレ・キンに、彼女がもう二度と目を醒まさないのだと告げた。
 レ・キンが怪我の手当をされている間もヤキ・ナリブレトは彼の隣のベッドで目を瞑っていた。医師は肩から先がなくなったレ・キンの左腕を手当しようとしていた。なくなった左手は医者にとっては全く動かない役に立たないただの組織だっただろう。
 しかし、それはレ・キンにとって、ヤキ・ナリブレトの思い出だった。彼は何も考えられずただ意識は消えてゆこうとしていた。ただ、ヤキ・ナリブレトは彼に自分の腕を使ってくれと言った。そのことを思い出し、朦朧としながら遺体を別の部屋に移そうとする医者に言った。
「ヤキ・ナは最後に、私の左腕を使って、と言ったんだ。僕に使ってくれと頼んだ」
 朦朧としながらレ・キンは伝えたが、医者は、彼女がもう死んでしまっていることを再び告げた。死者の身体を切り刻む気はないし、その腕もまた損傷しているのだから移植することはできない、と言った。レ・キンが執拗に頼むため、医師は彼を諦めさせるために、レ・キンをヤキ・ナリブレトの亡骸の前へ運んだ。レ・キンの目の前で彼女がもう完全に死んでいることを見せた。
 ヤキ・ナリブレトの傷ひとつない白く美しい顔は、ただ彼女が眠っているだけのように見えた。だが、彼女のいつも着ていた黒いワンピースは、べっとりと血で濡れていて、長い脚は青く変色していた。細い身体は黙ったままで、確かにレ・キンは彼女は死んでしまっていた。
 どうしようもなく、彼には世界が再び濁った水に戻ったように思えた。何も見えなかった。彼はヤキ・ナリブレトの胸に手を乗せた。それまで一度も彼は彼女の身体に触れたことはなかった。彼は一度でも彼女を強く抱きしめるべきだったと後悔した。しかし、動かなくなってから手を当てても遅かった。
 心臓は止まっていて、赤い血が手についただけだった。
 彼が悲しみに暮れいつかのように悪夢を見そうになった時、ヤキ・ナリブレトの長く白い左腕はゆっくりと伸び、俯いているレ・キンの頬を撫でた。 
 涙の筋が頬を伝いヤキ・ナリブレトの左手の甲を潤した。
 彼女の左手が頬に触れた瞬間、レ・キンは初めて起こったことを理解し、涙を流したのだ。彼女は死んでしまい、もう二度と帰って来ないのだと知って、それが実感になって彼は息ができなくなった。
 息をしようとすると涙が流れ、止まらないのかと思うほど長い時間流れ続け、それがついに尽きてしまった時、どっと痛みや疲れが押し寄せ、なんとかヤキ・ナリブレトにしがみつこうとしていたレ・キンの意識はふっと消えた。
 死んだように見えたヤキ・ナリブレトの左腕の機能を認めた医師は僅かな可能性を信じて至急甦生を試みた。医師は慌てて胸骨圧迫を始め、彼女の脳の状態を確認した。彼女の身体は強い打撲により完全に機能を止めているように見えたが、脳の一部、そして左腕に関してはほとんど無傷だった。心臓は微かに動き始め、当然彼女の意識は死んでいたが、唯一無傷だった左腕は生かされていたのだ。

 水筒の茶がなくなると、レ・キンは立ち上がった。古いコンクリートの凹みに積もった砂や貝殻の破片や、乾いた海藻のかけらを払うと彼は思い出深い翠巴川埠頭を後にした。
 レ・キンはあの日、自分の左腕を失い、ヤキ・ナリブレトは死んだ。彼は何が起こったのかを覚えていないことを幸いに思った。彼が覚えている彼女の最後の記憶は、彼女が左腕が自分の頬を撫でる感触であり、埠頭で交わしたいつもの幸せな会話だった。
 彼は翠巴川に沿って歩き、古い木の橋を渡って森へ続く道を歩いた。
 ヤキ・ナリブレトの家はまだそこにあった。彼は首にから下げている二つの鍵を手にとって月明かりに照らした。錆びている方の鍵を使って扉を開けて彼は中に入った。
 そしてもう一つの鍵、ジルコニウム、彼の左腕にある傷の形をした印と同じ物質でできた、同じジルコニウムで出来ているが異なる色をした鍵を眺めた。それはレ・キンがここで眠った夜にヤキ・ナリブレトが彫っていたものだった。
 その鍵は傾けると夜明けの海の色に輝く。その鍵はヤキ・ナリブレトが最後に作った彫像の右手に握る為に作られた。ただ、意味もなく装飾のためだけにヤキ・ナリブレトが鍵を作ったはずはなかった。彫像の左腕の内側に鍵穴はない。
彼は気づいていた、その鍵が確かに何かを開く為にあるのだと。レ・キンはヤキ・ナリブレトの部屋の東の壁にある出窓を開けた。
 彼はあの日、そこから朝日が入ったのを覚えていた。窓枠の溝を右手で撫でていく。
 やはり右の溝に穴はあった。鍵をはめて捻るとカタンという音は出窓の下の板から聞こえた。
 レ・キンが静かに板を外すとそこには七冊の分厚いノートが並んでいた。彼は七冊のノートを鞄にしまうと、窓を元通りにして、部屋の他のものには一切手をつけないで海風の巣に帰った。
 海風の巣に戻るとレ・キンはヤキ・ナリブレトの作業していた場所に彼女の使っていた折りたたみ椅子を出した。その椅子は彼女がまとめた荷物と一緒に島に運んでいたのに、わざわざ持ってきたのはここで座るためだった。淡い紫の電球のスイッチをつけ、ヤキ・ナリブレトの部屋から持ち帰った七冊のノートを見た。
 表紙には一から七までの数字が書かれているだけで、そのすっとした筆跡や、他に何も書かない潔さを見て、彼はやっと海風の巣で、溺れ溪で、ヤキ・ナリブレトらしさを再び感じた。
 ノートを開いて、何を書いたものなのかを理解した彼は涙を流した。それは懐かしさであり、温かさ、嬉しさだった。彼は幸せに思い涙を流した。
 それは彼女の日記だったのだ。一冊目の一ページ目はレ・キンに出会った日から始まり、七冊目は途中、死ぬ前日にレ・キンがヤキ・ナリブレトの家へ来た夜のことを書いていた。そこには彼女の全てが書かれていた。行動は当然、感じたこと、思い出したこと、誰かと話したこと、それに対し思ったこと、何もかも全てが詳細に語られていた。
 レ・キンが、出会った日の彼女と同じ年になるまでの七年間、彼女の生活の多くの感情はレ・キンに割かれていた。彼に対する思い、心配なども当然多く書かれていた。彼女の生きていた証を見たレ・キンは、ヤキ・ナリブレトに出会えたことを喜び、彼女が生きた二十八年間、共に過ごした七年の日々を祝福した。彼女は彫刻に取り組む時に他人の影響を受けたがらなかったが、レ・キンをはじめ海風の巣にいた彼らの存在が彼女の制作に良い影響を及ぼしていたことにも彼女は気がついていて、それを黙って受け止めていたらしい。
 レ・キンに対する時、彼女は己の感情を殺すようにして、彼を支えようとしていたらしい。そして、彼女はレ・キンが自分に頼ってくれることでいくらか救われるように感じて、レ・キンの存在が彼女の孤独をいつも慰めてくれていたのだ書いていた。彼女はレ・キンを愛していたが、そのせいでレ・キンが一人で生きられなくなるのではないかと心配し、自分が思う人にとってそれが最良であると信じ、出来る限り良い友人、良い姉のような振る舞いを心がけていたのだ。
 自分についてをほとんど語らなかったヤキ・ナリブレトは、いなくなって初めて、彼と過ごしたその時間の全てを教えたのだ。彼女が最後の日に翠巴川埠頭でレ・キンに鍵を渡した理由が何となく解った気がした。彼女は、溺れ溪で支え合った七年の気持ちを、もう彼に伝えても大丈夫だと思ったのだろう、そして溺れ溪の七年が終わり、知らない場所で二人で一緒に生きていく新しい七年に新しく一から数字を振るつもりだったのだろう。七冊目の最後のページにはこう書かれていた。

〈すやすやと眠っているレ・キンの隣で目を瞑ると、今日のことが思い出されておかしかった。彼の部屋に行くと緊張してレモネードを一気に飲んでしまった自分が可愛かったなぁと思ったり。丘の上で夜景を見ながら、飴を食べた時間は素敵だった。彼のくれた硝子の指環もとても素敵。彼は知ってるのかしら。私が海螢を見ると安心することを知ってるのかしら。だから私が紫の灯りを使っていて、夜の海の藍色と同じくらい紫が好きだってことを知ってるのかしら。あそこで丘の上で言ってくれた言葉を思い出すと嬉しくなってドキドキしたり、何も遠慮しないで彼と過ごせる生活に期待が膨らんでワクワクしたり。レ・キンはとても愛おしい、そしてとても大切。彼は私の宝物なの。一番に守ってあげないと壊れてしまう薄くて美しい硝子のような人。やっぱり隣にいると落ち着いて眠れなくって、ベッドを出てハンモックで眠ることにしたわ。起こさないようにそっと抱きしめて、頬にキスして、おやすみなさい〉