常夏の夜は遠くまで刺激的だった。星のない場所だ。俺の他にもたくさんの人がいるのが分かる夜らしい街は、二十四時間周期で現れなんでもない人間を焦らせてしまう。大量の他人が行き交う大通りの、その裏にあるボロアパートにある俺の暮らしは、その他人の中の一つに過ぎず色も形もない普通のあれ――つまらん類のよくある最悪な人生に違いない。そんなのを考えずにいようとすると自然と鳥籠の外にある木々が揺れる様が話しかけて来るようになる――無視するものが多く全てを放り出すには骨が折れる、鳥が怒鳴るくらいはなんでもない。俺はケータイ電話を取ってゲッドにテキストを送った、彼女の顔を忘れてしまったから――彼女は今頃象に乗って遊んでいるだろう、外国の街は俺の思考の外だ、象のクラクションが耳を邪魔する、ある程度通りから離れているにも関わらず。ゲッドから返事が来たのは二時間後、俺は川べりにいた。
この街には川があった。ロンドンにテムズがあり、ニューヨークにハドソンがあるように、まともでないこの街にも川――水のママがバンコクに小言をいっている。チャオプラヤー、クソナマズの群れに刺青いれた不良たち、いい奴らだ。この川の向こうには何もない。全部水田で、山になって虎を跨いでビルマ。鳥以外あっちに行って面白いやつはいない。蛙はここで十分だろう。人間は川べりに来ているうちは野心家だ、俺も――だが街でへたばって酒ばっかの人間どもには未来無し。俺は半分どぶに捨てたようなもんだ。うまいこと流れ込んで、水のママが引っかけてミスりまくりの人生を返してくれると信じるしかない、返せよ、俺のなんだから。 ゲッドは家で犬の世話をしている――遊んでいるだけだろうが、俺は屋台のばばあと最近見始めた夢の話をしていた――これは面白いことに皆が遂に別の夢を見始めた一年だったから、それぞれ擦り合わせに世間話をするようになった。俺は雨季のンガムヲンワンを大ナマズがイルカのように泳ぎ回っているっていう例の夢、一年前に死んだ金魚が溶けるように竜に変わってそれから空へ飛びあがれず、二十センチ程度の高さでホバリングしては地面にばたんと落ちる――これがかなり惨めなざまでいたたまれなくなるような夢。ばばあはこれを聞くなり、ナマズの夢は川の夢だと言って聞かん、そんなことを言ってもナマズが泳ぎ回っていたのは冠水した道路――しかし全ての道は繋がっており、こうしているうちにもお前の魂は川を越えて行ってしまう。そんなキチガイみたいなことないだろう、おばさんの夢はめでたいんだろうな?彼女の見た夢はただ一つ、サイが象に勝ってしまい国のシステムが変わる――どう変わるのか?皆が火を恐れなくなるのだと、こう聞くと恐ろしく暗示的な夢だが、サイが火を恐れないなんて嘘だ――それに国のトップがサイでも象でもそう変らないはずだ――世に救いがあるとすればそれは上流だ。彼女の夢は不気味、そこで俺は食い終わってゲッドに電話した。それで、金曜にでもなったらまた会ってやってもいいわ、彼女はたらんたらん、そんな風なことを言った。わかった、と言いパニックの言っていたことも確かめておこうかと考えたが度胸がなかった。俺は瓶ビールを持って歩き出した。
チャトゥチャック夜市で今日もやっぱり音楽は鳴らされていた。なんとかしてバスを乗り継いで夜市に着いたのは九時ごろで、テントの下でほとんどの人間はすっかり酔っぱらっていた。奥にあるステージに辿りつくともう音は一帯を包んでいた。遊んでいるわけじゃない、意味なんかないけど積んでるんだあれは、黙って聞いてみろ、音楽が、鳴っている、くだらなくない音楽、面白いやつ、ポンポコポンポコパカパカパカパカパカって言ってだんだん小さくなるふりをする音楽が鳴っている、かんかん光が振れて頭は全うになるんだ。今日のもかなりいかしたバンドだった――ハンドパンを叩きまくってる野生児を中央にシタール、ピン、ドラム、ボウイングギター、ディジュリドゥ、彼らは何もかも演奏した。隅っこに髭面の白人がちょこんと座ってて、エフェクターを弄ってる、いやらしいリヴァーヴ、フレンジャーあれこれ押しては抜いてひねって、これ以上は勘弁ってぐらいに音が歪んでそっからが本物の夜――ビール飲んで隣にいる知らないやつらと肩組んで踊った、顔もみないで揺れている間は繋がっていた、そんなのが三、四十分続いたあとにばらばらと人は他人に戻っていった――が、少なくとも一人や二人は顔見知りみたいなんができて、そのまま夜市内にある酒場になだれ込むことになった。
テント市の中央のプレハブバーの一つでとにかく暑くてうるさかった――普通に喋る時でも俺らは叫んでいたし、酒が十分になった辺りではおらびまわっていた、異常じゃない、叫びながら煙草を吸う、結露が流れる、ビールの上で氷が弾ける音だけはどこでも聞こえる。素敵だった。バーの主人はさっきのバンドでシタールを弾いていた男だった。デカいケースを背負ってゆっくり戻ってきて、奥にシタール立てかけると一緒になって飲み始めた。肩を組んで踊っていた赤ら顔の丸メガネ男も、そのつれの赤い短髪女も、知らないやつ――よく見れば会場からふらふら一緒に来た俺たちの他、どこからともなく現れた自他境界ぼやけの酔っ払いども、全員満足して騒ぎまわっている。俺のクロンティプ煙草はいつの間にか倒れたビールに浸って、知らない奴がよこしたメンソールを吸う。
やっとこの酒場にいる人間の顔をまじまじと見たら――俺と一緒にここへなだれこんだカップルの顔、シタールを担いで帰ってきた主人、そしてその連れ、鉄砲水みたいに早口でタイ語を叫んで、大笑いするこの夜市の孤立者たちだ――カップルの丸眼鏡はどこか芸術家ぶった胡散臭いやつで鼻で大笑いするのが妙だった、女の髪はピクシーカット――赤く染まってアナーキーな風情で批判的な酔い方をした、シタールは自然なゆるいくせ毛のロン毛を胸までふさふささせ笑ってなくてもいつも目が柔らかく細い、連れの男は帽子を被っているその後ろで長い髪を、恐らく直毛で、お団子にしていた、そいつの目は誰よりもくりくりしていて如何にも実年齢より若そうに見えているタイプの年齢不詳、おまけに指にはタトゥーがいっぱいだ、他にもインディアンみたいな小さくて丸い目をしたおかっぱの男や、髪を青く染めた女、などなど――そいつらの名前を一人ずつ覚えていくのはいくらなんでも不可能に思えたが、俺はそのうち一個ずつ覚えていった。まずはアシャールとギゼラのカップル、これが俺と肩組んで踊っていた連中で、聞けばインドネシア人だった、言われてみれば二人ともインドネシア人らしい顔立ちをしていたがカトリックでムスリムじゃない、金持ちで家は中心部にある、リッチな奴らだが素朴な神経で郊外の夜市に来る。トンローだかにデカい家を二人で借りている。ギゼラはジャーナリスト、ラップトップで記事を書いてジャカルタのデカい新聞社に送る――最近の特ダネは去年の大洪水、及びそこから街に溢れかえった鰐ども。アシャールの職業は不明、恐らく無職だ。シタールはこの辺に住んでいるらしいが、聞いても俺の家はスラムにあると笑う、他は後々話す。真っ先に英語の上手いこのジャカルタン‐インディーカップルとシタール男は仲良くなった。彼らタイ語も随分上手かったが、どうしてそうなのかは分からない――どちらも大学はジョグジャでタイに来たのは二、三年前らしい、飲み歩いただけで英語ができるようになるとは思えなかった。とにかく彼らはシューゲイズとニューヨークインディーに夢中で、そればっかり追いかけていた、変な話ここの音楽は日本にないものだらけだった――権力を失った孤立者たちの文化がこの常夏アジアでは生きていた。どうしてこう孤立者たちに優しいように、酸素が溢れかえっているのかは知らないが、とにかくその中で新鮮な酸素を吸いまくるのは最高だった。ねえジョグジャではね、本さえ売れる、とギゼラは笑った――あなたには信じられないでしょうけど、と。デカい会社やらも無しに誰がどこで本を売るんだ?――道(ロード)の上で!――なんって?――ほら、一冊で一食さ、生きていくなんてそう難しいことじゃない。税金とか保険とか年金とか奨学金とか、飯だけじゃないだろ――馬鹿、そんなの気にして最高の芸術を打ち上げられるわけないでしょ?――花火みたいな言い方すんなよそんなに綺麗ってことはないよ。馬鹿日本人め、くだらないのはお話だけにしてくれよ、ほら、お前は何を書いているんだ?――俺は現実よりいいもの書きたいな――書かないのか?書こうとはしてる、けどそれだって書いてみれば平凡じゃないか、どこにでもある、面白くない。あんたさ、目が足りないんじゃないの、カワサキ!あんたの目はね、あー!あー!ギゼラは叫びながらウィスキーをストレートでごくりと飲んだ。あー、ため息をついて言った。あなたの目は黒い!当たり前だろう。そんなので誰も見たことないもの見られるわけないでしょう?それを考えて書くんじゃないのか。考えて現実を飛び出した気になって、それあんたノートに殴るわけでしょ、それ読み返せるでしょう?当たり前じゃないか。読めるんじゃそりゃ現実に他ならないぜ。私が言ってるんはね、あんたが普通でなくなるってこと、そうする以外であなたがやりたいもん書く方法ないよ――ギゼラは今にも俺の目玉を突き潰すような勢いで、恐ろしいような顔、隣のアシャールは難しい顔で彼女に同意している。お前らは何様なんだ、と言いたかったが、私の周りにはいくらでもすげえもん書くやつがいる、と言い捨てた。黙って、俺は遠くを見た。普通を超えた目なんか想像もできない。誰が普通じゃない目を持っている?――あんたさっきから当たり前、当たり前って、そういうところでしょう。シタールが隣のテーブルで聞き耳を立てていた。タイ語交じりの訛った英語で、俺の目は芸術を作ることができるヒトの目をしているのか?と割り込んできた。俺は恐れ多くなり眉を顰めインドネシア人カップルを見た――彼らはドードーとそのシタール男の瞳を睨んでいた、これが客なら恐ろしい商売としか言いようがない――しばらく睨み続けた挙句、こいつよりはマシね、あんたはまるでダメよ、実際あなたは良いもの作ってるわ、とギゼラが言った。何か足りないというような言い方だなとシタールは笑った――参ったなって感じの苦笑い――別に売れようとか思ってないんでしょ、とアシャールは言った。まさか、売れたらこっちが困るくらいさ。ここで静かに鳴らされるべきだ。あの音楽は鳴っていることが目標でゴールだ。レコードを出すつもりだってない。あの野外ステージで小さいライブをやって、このバーで小銭稼いで、死ぬまで音楽が鳴る、僕は一生スラムに住んで、タイから出ていくつもりもない。アシャールの丸い眼鏡の中にはどことなく悲しそうな目、シタールは笑っていた――本当に満足しているようで、アシャールの表情の意味が俺には分からず仕舞いだった。孤立者達の音楽はその晩途切れることなく俺たちは友人になった。帰りくたくたの足でヴィパワディ通りを歩き、長いンガムヲンワン通りには目だけ光るホームレスと犬、すれ違って俺は千鳥足で帰った。朝になっても音は鳴っていた。