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ともに浮かべば肺、満ち! 6章

 恐ろしい夢を見たような気がしたが現実そんなことはないらしく、平和な太陽が真上を転がっている――雨は降らないだろう、空気は乾き、埃が青空を濁している。ゲッドはいつのまにか帰っていた。ライブミュージックも来週までお預けで、鳥はそこら中にいたが近くには来ない――相変わらずのコンクリートの壁、無機質なニラヤだ。夕方からパニックと農村研究の準備でピートの家にいた。初めのうちは真面目にダンチャンのカレン人農業についてまとめていたがそのうちなんとなく部屋中が暗くなっていった――当然日が落ちているのもその原因だったが、それよりボロイ蛍光灯が発する青い光が理由だった。シャワー直後だったらしくコンクリートの壁は湿って反射、陰鬱だった――この間死んだ竜の話になって俺たちはなるべく笑っていたが、悲しかった。この前みたいにソムタムを食っていると急に涙が零れ落ちてきた――ピートは研究準備そっちのけでずっと携帯電話でMtGをやっていたが急に大声でむせび泣いた、俺とパニックは驚いて彼の背中をさすった。ピートはげぼを吐いて、それから冷蔵庫から取り出した赤いファンタを部屋中にまき散らし始めた――慌てた空気と赤い液体がボトルの中をせめぎ合ってじょぼじょぼ、ベッドもシーツも食紅の赤で染まっていく、もっと悪いことにはファンタの炭酸が空中でバジバジ煩く弾けて、音が物凄いことになって反響した――生き血の代わりにタイ人が精霊に捧げる為にどこでも売っている赤いファンタ、イチゴ味のかき氷シロップと同じ味でこれをジュースに飲む人はとてもおらんだろう、真っ赤、真っ赤、部屋中気分悪いシロップと香料の匂いに包まれて気分悪くなった――竜が死んだのはお前のせいじゃないだろうとパニックが怒鳴ったら隣の部屋から罵声が聞こえて、それを聞いたピートが奇声を上げた。俺は途方にくれてベッドわきに座って、その様子を眺めた、蓋にファンタが溜まりまくっているので赤いナイキの段ボールを取った。中に入っている靴がダメになるのを心配してのことだったが、開けると中からは干からびた竜の死体が出てきた――死んだのは二カ月前の農業祭の前後だったはず、大学内の通りをペテン師が奇形の青い虎を売り歩いていたから俺らは気分が悪くなって帰った、そしたら子供は死んでいた。青い虎はどうなったんだ?あいつはうちの黒人が捕まえてカオヤイに帰した。うちの黒人は偉大なる学部留学生一号、我らが先輩のティム・コールドマン博士、あれが腕力に物言わせてペテン動物売りをとっつかまえて、レンジャーに電話したんだって。まだ鰐なら好きにやっていいが、虎はあかんよな、とピートが泣きながら言った。くだらない話を持ち出したお陰でピートはかなり落ち着いてきたが、俺はその間ずっとぎょっとして竜の死体を凝視していた――ほんの子供で、ピートが研究地のプートーイ国立公園、ウタイタニ‐カンチャナブリ‐スパンブリの県境周辺の森林から卵のまま持ち帰ったやつだった。今はもうミイラになっていたが、ベタ塗りみたいなウロコはまだ金色で賑やかに光っていた。そこに赤ファンタが本物の生き血のように垂れてぬらっと染み込んでいた。

 思えば去年のクリスマス――ここのクリスマスはとにかくセクシーだった、日本のそれとは全く違う聖なるエロ、ビキニのサンタと筋肉質なケンタウロスが海から来て、中国のユンナンへまっすぐ移動していくだけの行事でキリストや佛陀は関係ない。つまり宗教ではなく現象であるが、その頃俺は竜に取りつかれていた。その時は、頬っぺたがうす紫の小さい女の子とデートをしていた、何せ彼女は性欲が強かったんで――でも俺とはセックスをしなかった、半分保護者のような形でほとんどの時間を彼女と過ごしていた――彼女と俺は毎日のように一号線をバスに乗って南北をピストンしていた。クリスマスの日も一緒にいて、アヌサワリーから東北部の入口、サラブリジャンクションまでバスを乗り継いで移動しまくっていた、彼女はバスを降りる度にマリファナを吸っていた――サラブリジャンクションで一と二が分かれ異なる文化へグラデートされていくのが視界の奥に見えて飛ぶんだとあいつは言っていた。近眼で目がスーパーボールみたいにデカかった、チビで可愛い胸、髪の毛は茶色のツインテール――顔はめちゃくちゃ童顔だった。俺からしてもモテる類の女であるのはわかったがピンズドということもなかった――とにかく彼女は異常に可愛らしく、その上ずっとキマってるんだから、やばいことだった。セックス依存症の割にはセックスが好きで仕方がないわけではないらしかった――自由意志の範疇を抜け出して死ぬほどセックスをしてしまうことを彼女は自覚していたし、そのことは彼女を傷つけていた。それで彼女は偶然知り合い、セックスをし損ねた俺みたいな奴――そばに置いておいてもつまらなくはないが特別そそるというわけではない人間を、そばに置いて、箍の役をさせることで安定していた――当時我々の間には一種の共生関係ができあがっており、お互いに満足していたし、安心しきっていた。人間関係というよりかは協定といったものだった。今は彼女がどうしているかは知らない。協定を破棄したのは俺だった――ヤク中もセックス依存症もだんだんと手に負えなくなっていったからだ。彼女だって彼女なりに変わっていく、と俺は考えるようにして彼女を探しはしなかった。今では特定の恋人を見つけて上手くやっているかもしれないし、どこかで困り果てているかもしれない。クリスマスの件で俺が言いたいのはあの女の子のことじゃなく、本物の竜のことだ。タイのどこにでも竜がいるわけではない、ある程度の条件が重なってやっと竜がいるようになる。サラブリジャンクションで彼女はいかれてしまって、俺は彼女をホテルに押し込んだんだが――彼女の家がサラブリから遠くなかったから、元々あそこで別れて俺はひとりで旅行へ、あの子は実家へという予定だった。あのあと会っていないからホテルで目を覚ましたあとにどこへ向かったのかは知らないが、俺はいつものように一人で東北へ旅行した。東北のカタカナがついていないような村で年を越すことにしていた――演習で知り合ったライメーという大男がメコンのほとりの農場に働いていた。ただただ魚釣りと水泳。例のコータヴィー的女も実は来たがっていたが、金持ちの過保護な親が旅行なんか許さなかった――両親は彼女を処女だと思っている。

 農夫のせがれライメーは日中大学関係の演習場で芋の世話をしていて、休暇中は俺も昼過ぎまでそこで土をいじっていた。ライメーは詩人――昔の中国の詩に詳しく、歌いながら耕す、それも原文ママ漢字を発音するので俺には全く何もわからなかった、錦鯉のいる池や、静かな白犬と一緒に丘陵を背にマリファナをやることもあった。面白い話、あのコータヴィー的セックス依存症女にとってマリファナは地獄の門の役割を果たしたが、俺にはそうではなかった。なんにでも依存したがりの俺だったが、マリファナは遊びに過ぎず、どこかに生を乱すような成分を秘めているとは思えなかった。ライメーは池辺で大麻の青煙を吹きながら詩作した、彼はストーンな時にはもっと良い詩を詠んだ。しかしだが、俺はめっきりで、酒も大麻も詩的な部分を刺激してくれはせず、寧ろ脱力――人間と土の境が曖昧になっていき、自分が地球になったような気がするので気分は良かったが、個として一人のカワサキイチロウという人間の必要性は感じられなくなったし、地球の方が大分に偉いので何やら書いて創造主のフリをしていても仕方がない、取るに足らないという気が起こるばかりだった。それで隣でライメーが身体を吹き飛ばす様な詩を詠むのを聞いていると池に突き刺さって鯉の餌にでもなりたい気分だった。この大地を謡うんだ、それが我々の生きる理由なのだ――ライメーはことあるごとに言った。夜毎に酒場へ行き、原付の後ろに女を乗せて帰ってくる。扉の向こうであいつはデカい身体で愛し合っていた。その声を聞きながら、俺は汚いキッチンの床で、寮舎の街灯が当たったすりガラスの上にチンチョが集まっているのを眺めて居た――トイレに出ると裸のライメーの胸の上で綺麗な女が鼻息しながら眠っていた。明かりは大麻草の鉢植えを照らす赤色光だけだった、俺はキッチンに敷いた汚い布団の上で泣いていた――これが俺のクリスマスだった。初めのうちライメーは俺も酒場に連れて行ったが、あいつが女と仲良くなると俺はタクシーを拾って帰らないと行けなくなる――俺は原付を持っていなかったので、いつもあいつの後部座席に乗って移動していた――原付に三人乗るのは無理なことではなかったが、流石にどんな顔をして良いかがわからないだろう。女が帰ると土曜も日曜も、畑にいる。そんな日々だった。太陽の角度がきっかり一四〇度になったら原付でメコンへ行って釣り糸を垂らす――年に一、二回来てこうして二週間ほど過ごすだけで、彼に関してはほとんど何もしらない。だが、他の時間も同じことして暮らしているだけだろうと思う。他にも友人がいるらしいが疎遠らしい、農業演習場に幽閉されており、ほとんど会わない――年に二回来る俺も、他のイサーンの連中も大した違いはない。ライメーは孤独の人だった。そんなことを聞いても仕方がなかったので俺はライメーとほとんど話さなかった――詩を詠みあうか、魚の話をするぐらいだった。釣り針にかかるのはほとんど小さいナマズか、ラスボラ。泥水の中であれらは赤いパターンを脇に掲げて西日に射られている。ともかく、多かれ少なかれそ年が変わるまでは、そう言ったティーンエイジドリーム風の空気が「まだ」フロートしていた。大気の組成が変わったせいだと学部にいたアメリカ人の陰謀論者は言っていた――彼もまたティーンエイジドリームの中に身を置いていたということ、三十二歳のドイツ人研究生や、アナーキーなエジプト系フランス人も皆十代の夢を見ていた。そもそもの夢の始まりまで辿れるものは一人もおらず、終わりの予感だけを固く皮膚に感じていた、実際その夢がニューイヤーズイブに花火と共にスイッチされ集合意識のチェーンが弾けた――人は今ばらされてそれぞれの理想の中で揉まれている、それで世間話が欠かせなくなった。新しい夢の中には新しい環境があった。

 俺が竜に凝り出したのはちょうど年が変わった時からだった。ティーンエイジドリームのふわふわした、浮遊感とは異なるものが辺りに満ち始めていた、実際に俺を浮揚している感覚があった――夢は千差万別だったが実際に感じたのはそういうことだった。きっかけは、あのイサーン農夫のせがれライメーがメコンの魚釣りに凝っていたことだった、そら魚を四六時中釣っていれば竜も見かける、ということらしかった。ナーガがおれば女神もおるだろう、と彼は川底女を探すのに夢中だったが、俺はそれらを別物とは思っていなかった――最近では象の神格が失われていて、この国も終わるぞ、と彼はしょっちゅう言ってたが、俺には愛国心のかけらもない日本人だった。

 当時まだ俺はあの麗しいゲッド嬢を知らず、褐色や赤、または桃色の肌を撫でるのが好きだった。今はもう青い肌以外にこころをくすぐられず――彼女の肌は触れる必要のない視覚ドラッグでこの世で最も刺激的だった。しかし今になって思っても、遠い遠いということばかり――ライメーが女を抱くのを見ていると、そこにこそ心の通った交流があるように想え俺は嫉妬した、俺から見れば、ゲッドにせよコータヴィー的女にせよ、どの人との間にも隙間がある、飛び越えられない大きい溝――象徴として存在する人々、ライメーもそのうちだ、誰も彼もいつまで経っても他人、俺に分かることは何も無いように思える――そのようなことを考えると一気に少し前のことが次々思いだされていたたまれなくなる――例えば諦めることについてなど。そして、俺は俺自身についてもロクにわかっちゃいない。新しい夢の中に放り込まれた俺はバンコクに帰った、申し合わせたようにパニックは竜の話をしだした。実際の人間が象徴である以上、象徴である竜も実際の人間と変わらなかった――そして俺は今年見始めた夢を思い知ったのだ。パニックの話していたのはつまらない話だったが、ちょうど新年に話されたせいで俺は驚いた。ピートの研究地の竜だ――ミャンマー国境で地底でとぐろを巻いている蛇竜、実際に地底の王国があるに違いないということは既に科学が証明していたが、接近接触するべきではないと俺ら大学生は一貫して認識していた。ピートだって本当に竜と思い卵を持って帰って来たわけではない、珍しい鳥を育てたかっただけなのだ。死なせてしまったのも故意ではなかったし、俺らはみな必死にあれを生かそうとしていた。しかし死んだ――哀しい話だ。普通はどこかへ埋めるか捨てるかしてしまうべきものが、数か月も経って出てくると気味が悪いし、干からびてみすぼらしくあれば一層最悪だった。そこに赤のファンタがかかって妙な匂い、妙な匂いには違いないが嫌な匂いでも良い匂いでもあるのが部屋中なので、むさくるしくなって、皆がしかめっ面になっていた――なんで捨てずに置いているんだとパニックは動揺してピートを掴んで揺さぶった――粗末に扱ったらよくないだろう――発狂したピートは怒鳴った。ナイキの箱に入れてんのもどうなんだ?丁寧に置いていたんだ――ギーとあの鳴き声がした、振り返ったら竜はのそのそ起き上がって、そろそろ這い小さい窓から蛇みたいに逃げていった。ピートは大喜びで窓に駆け寄り何やらタイ語で早口に話していた。終ぞ飛ぶのは見られなかったな、とパニックは言った。ピートは何度もあれは飛んだに違いないと主張していた。部屋の壁は依然湿って青かった――パニックは気を取り直し卒業研究の続きを始め、俺はナイキの空箱を廊下のごみ箱に捨てに出た。赤いファンタは当分片づけないとピートが言い張ったため、その晩俺らはこの汚い部屋で酒を飲んだ。パニックは赤ファンタの伝統なんかはほとんど気にしていなかったが、ピートは根っからのカントリーガイでお香やら赤ファンタ、シマウマ、チキン何から何まで信じていた。