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玻璃玉送り 2

 珍しく夜のうちに眠った私は、まだ太陽が東側にあるうちに家から彷徨出した。家の前の大きな街道を歩いて、競艇場へ向かっていた。日の出前からあの旅へ嗾すような奇妙な感じが私の胸を叩き続けていた。歩き始めるや否や、廃れた風習の幽かな息が私に聞こえ、私はそわそわと辺りを見ながら早足で歩いた。通りから通りへ歩き、やがて街路樹の覆いかぶさる涼しい遊歩道に入った。
 とうとう競艇場のひび割れた白い建物が見え始めた。八百屋の老人の言った通り大崎通りはちょうど競艇場駅前から伸びており、先は小柳町商栄会という名の商店街になっている。こちらの商店街もやはり例に漏れず廃れているらしく、軒並みの一部は不似合いな新築の住宅に変わっている。商栄会と書いたゲートの他に商店街らしいものは、シャッターと虚しく揺れるオリンピックの白い旗があるくらいである。盆のせいか廃業のせいか、固く閉ざされたシャッターの前を抜け、住宅街へ入り尚も南下し、私はやっと多摩川の土手へ突き当たった。地図にある通り左折し、三つ目の角で足を止めた。しかし、高野と書かれた表札もなければ、コウヤ硝子と書かれた茶色の廂もない。私は数え間違えたかと思い、元来た道まで引き返し、そこからまた三つ数えようとした。しかし、変わりばえしない住宅が並んでいるだけなので、元来た道がどこかも分からなくなってしまった。何度か行ったり来たりしたのち、私は土手の上に上がって、茶色の廂のある家を探すことにした。車道を渡って、多摩川の土手に上がると、河川敷の間を太く水が流れている。対岸のほど遠くない場所に多摩丘陵が連なっており、ニュータウンの列がある。その上には夏らしく入道雲が湧き上がっている。大体は町田か相模原の方に雨を降らしているのだろう。しかし、その雲は秒ごとにも動いているのがわかるほど大きいもので、こちらまで来てもおかしくはないように見える。私は一遍、住宅街の方を見たがそれらしい建築は見当たらず、一旦諦め腰掛けて煙草をふかし始めた。幸い土手上の遊歩道には人っこ一人いない。普段であればランニングなり自転車なりで大いに混雑しているのだが、感染症を気にしてか、お盆のせいか広くガランとしている。私はみるみる盛り上がって行く入道雲と、水面に反射する昼前の太陽を代わる代わる見つめていた。
 ふと、河川敷に人がいるのが目に入った。目を凝らしてみれば、木の下にあるベンチで背の高い若い女が三人座り込んで話をしているようであった。私は暑い夏の日差しの中、広告に書かれた地図を日よけにして土手を降りて行った。彼女らに聞けば、道がわかるかもしれないと思ったのである。
 私は木漏れ日の中で彼女らは、やけにつばの広い麦わら帽をかぶっている。顔を隠すような角度ではないし、話し声も高く聞こえているが、そのつばが広いせいで顔のほとんどは隠れている。私はゆっくり近づきながら、彼女らの様子を伺った。三人とも揃いの赤いワンピースを着ているが、帽子は一様ではない。一人は真っ黒に色をつけられた麦わらを、もうひとりは銀に近い白を、もうひとりは赤っぽいオレンジの麦わら帽子をかぶっている。
「あの、この近所の方ですか?」
「ええ。そうですよ」と黒いのを被ったのが言った。三人の女は同時に顔をあげ、不思議そうに私を見つめた。尖った鼻が似ているところは姉妹であり得るかもしれない。彼女らは、紙の容器に入った、フライドポテトとたこ焼きを爪楊枝で食べている。玻璃玉送りの屋台が近くに出ているのかもしれない。彼女らの不思議がるような顔と、珍しい屋台容器に入った揚げ物を見ると、私の方が面食らってしまい、しばらく風に吹かれてめくれ上がった麦わらのつばが三つ並んでいるのを私は眺めていた。黒いのと赤いのが微笑んだ。白い帽子は一向に戸惑い顔で首を傾げている。
「いる?」と赤いのがフライドポテトの紙容器を私に突き出してくる。白いのはぽかんと口を開けそれを眺めている。
「遠慮しておきます。コウヤ硝子というお店を探しているんですけれども、ご存知でしょうか?」
「それならすぐ側ですよ」
私は広告の裏に書かれた地図を彼女に渡した。
「もう本当にすぐそこよ」と赤いのが言う。
「それが分からないのです。茶色の廂があると聞いていたのですが」
「玻璃玉送りにいらっしゃるの?」と黒いのが私に尋ねた。私は頷いた。
「玻璃玉を買うんでしょう。それなら案内して差し上げましょう」黒いのが言って立ち上がる。爪楊枝を赤いのが持っているフライドポテトの容器に差して歩き始めた。赤いのも急いで立って付いてくる。
「ありがとうございます」
「ヨウコ、いらっしゃい」
 ヨウコと呼ばれたのは白い麦わらを被った無口のやつである。ヨウコはたこ焼きでほっぺたを膨らましたまま立ち上がり、ちょこちょこと後ろをついて来る。大方、黒いのが長女、赤が次女、白のヨウコは末っ子なのだろうと私は思った。彼女らはとことこと土手を上がって行く。私も遅れないよう後をついていく。
「雨になりそうじゃない?」と赤いのが私に言った。
「あの雲でしょう?意外に早くこちらまで来そうですね』
「水が増えるよ」と彼女は笑った。
「雨でも玻璃玉送りはあるのですか」
「当たり前よ。こんなの年に一回しかないのだから」
 我々は土手の上の遊歩道を川上の方へ少しだけ歩いて。黒い麦わらのが目の上に手を当てて、建物を探している。
「あそこ、あるでしょう。あの白いセメントの建物がそうですよ」と彼女は言った。
「あんなよく目立つのを見落とすなんて大概よ」と赤いのが言った。
 老人がやっていると聞いていたから、てっきり古い日本家屋だろうと決めつけていたので、見落としていたとしてもあり得ないことではない。
「それではまた夕方、河原でね」と赤いのが言う。「晴れるといいですね」と黒が言う。すると三姉妹は下流の方へ遊歩道を歩いていった。しばらくその三人の後ろ姿を私は眺めていた。夏の風にひらひらと赤いワンピースが揺れて遠ざかって行く。

 私はコウヤ硝子の建物に向き直った。白いセメントの直方体に近づいて行く。それは太陽の光のほとんどを反射しており、見ていて目が痛いほどであった。建物は三階建の高さであり、異様に無機質である。何がその奇妙さを醸し出しているのかとしばらくじろじろ見ていたが、窓がほとんどないのがおかしいらしかった。二階の高さにはだいたい九十センチ四方くらいの正方形の窓がいくらか並んでいるのだが、それ以外に採光はない。南向きで窓がこうも少ないのは珍しいなと思い私は歩きよった。言われた通りの茶色の廂が突き出ているが、その下に入り口があるということはなく、ただ後で付け足したようにセメントの壁から突き出している。看板代わりといったところだろうか。その脇に小さい鉄の扉がある。私は門の前に立ち、中で硝子細工をやっている老人のことを思い多少の緊張を覚えた。ふと何者かに見られているような感覚があり、私は自然とあの小さい窓を見上げた。影が目に入り私はさらに目線をあげる。屋上にそれはあった。屋上の手前ギリギリの場所に人影があるのである。水道パイプか何かの見間違いではないかと目を凝らすと、それは石像であった。人が胡座か何かで座っている像である。いよいよ不気味さが増してくる、夏の白い太陽に照らされながら、その像は私を睨むよう俯きがちに手を合わせている。地蔵の類だろうか。思い切ってインターホンを押すことにした。掠れたチャイムの音に少し間を置き、老人の声がスピーカーから響いた。
「何の用だ」
「玻璃玉を買いに、比留間さんから聞いて来ました」
「入れ」
 私は恐る恐るその庭内に踏み込み、鉄の扉の前で立ち止まった。私がしばらく落ち着かない様子でいると、内側から錠の開く音がした。十センチほど扉が開き、そこに皺の多い手が見える。
「入れ」
 玄関から入ると、そこには銀髪を短く刈りそろえたしっかりとした体格の老人がいた。八十後半に見えるが、健康そうで背も高い。老人は言葉少なく、玄関の扉を開けた。
 私はその時やっとこのセメント造りの直方体の意味を理解した。白いセメントの中に古い日本家屋が収まっているのである。老人は中にある日本家屋の玄関を開けたのである。ぼんやりと明かりが差し込むと、外に突き出ていた茶色の廂は、内側の日本家屋から突き出ているのである。やはり、本来の建物の廂の下には店舗用に使われていたであろうガラスの大きい入り口がある。 
「どうして家をセメントで覆っているのですか?」
「自分は人間を信用していない。昔酷い目に合わされたからな」
 彼はそう言いながら私を店舗に案内した。外をセメントで覆っているせいで住居の玄関を通らずに入ることはできないようである。土間のように一段低くなった店舗部の扉を高野老人は開け、私に入るよう言った。老人は下へは下りてこないで、電気だけつけると私に玻璃玉を選ぶよう言った。黒塗りのブリキの笠の下で明かりが燈った。暖色の電球は部屋を浮かび上がらせ、色とりどりのガラス玉の並んだ棚が所狭しと並んでいる。私は思わず段を下りて、棚の間に歩き込んだ。棚に並んだガラスは様々で、元になるガラスの色に加え、そこに絵の具のようなもので装飾がされているのである。茶色、臙脂、濃い緑、水色、藤色、とベースのガラス玉があり、装飾は屏風に描かれる風景に似ており、夏に限らず四季折々の景色が抽象的に描かれている。
 緑のガラスでも、中に鱒を書けばその玻璃玉は深い淵のそこになるし、金色の粒が舞えば金木犀を思わせる、それだけで夏か秋かと印象ががらりと変わる。しかもその玻璃玉の数々は私が動くごとに、光線の当たり具合や陰の微妙な作用で、動いているように見えもするのである。水色の玻璃に赤白の模様が動いているものはまるで金魚か錦鯉が泳いでいるように見えるし、濃紺に鮮明なレモンイエローが埋められているのは渦巻く星月夜である。
 ただこの部屋に飾られている玻璃玉の数々を眺めて、歩き回っているだけで何時間でも時間が過ぎていくだろう。やがて私の目に止まったのは薄紅色のガラスに銀色の雫が舞い、その舞っているところに虹色のように膜がかけられているのである。私にはそれが春に舞う桜の花びらと、それを運ぶ風に見えた。私はどうもその景色に見とれた。私がおもむろに手を伸ばすと、老人が言った。
「本当にそれでいいのか」
 私は思わず手を止めて、段の上から見下ろしている彼の顔を見上げた。
「ええ。私はこれがいいです」うなずきながら返事をすると、彼は「それならとりなさい」と言った。私はゆっくりとその玻璃玉を両手で取り、静かに老人の所へ運んだ。
「作品に名前かなにかはおありですか」
「ない。わしは作り終わった玻璃玉を思い返すことはないし、いちいち覚えようとすることもない。仮に名前が在ってそれを聞いたとて、お前は今晩それを川に流さねばならないのだから、愛着を持ってもいいことはないだろう」
「確かにそうかもしれません。しかしそう思うとこれほどに美しいものを川へ流してしまうのはどこか残念です」
「私はただ少しでも良いものを供えられるように作っているだけだ」
「誰に備えるのでしょうか」
「川と先祖の霊だ」
「そうですか」
「二万円だ」
「は、はい」私は財布から紙幣を抜き取り高野老人に手渡した。老人は紙袋に私の選んだ桜色の玻璃玉と、蝋燭を一本入れて渡して来た。私が礼を言うと、彼はまるで追い払うように店舗の戸を閉めて私を玄関の方へ追いやった。
「また来年お願いします」
「そのつもりかね」
「はい」
 私が言うと老人は鼻で笑った。いよいよ気味が悪いので頭だけ下げで、振り返りもせず私はガラス屋をあとにした。外に出ると、南の丘陵の南で湧き上がっていた入道雲がもうこの街の上に流れており、青い空は北の端に残っているくらいである。また、その空の下をコウヤ硝子の屋上の石像が不気味に座っている。前は強い日光で濃淡なく見えていたが、曇天の下で鮮明にその彫刻を観察できた。それは長髪の男が祈りを捧げる様であった。そして、その男は来訪者の私を睨んでいたのではなく、多摩川に手を合わせて祈っていたのだ。私は目を背け、入道雲特有の明暗の下を歩き始めた。片手に玻璃玉の入った紙袋を抱え、川に沿って家路を目指した。もう今にも降りそうな重い雲であったが、やはり一分と経たないうちに雨が降り始め、私は公園を見つけてそこの東屋に入り雨宿りを始めた。
 雨脚は強くなる一方で、私は当分は帰れないかもしれないと心配しながら煙草を吹かし始めた。すると原付に乗った坊主が通りかかった。やはり雨宿りの場所を探していたのだろう、公園の前に原付を停め、私の座っている東屋の下へ駆け込んで来た。彼はかなり慌てた様子で分厚い橙色の袈裟を脱ぎはじめる。見た所三十前後の若い坊主である。長いこと読経に檀家を回る坊主を見ていなかったので、その時やっと普通の盆の風景を見た気になり安心した。
「読経の進捗はいかがですか」
「朝方にたくさん回っておいて助かったよ。あとはもう一軒でね」彼は肩掛けの鞄からタオルを出し、雨で濡れた坊主頭を拭いた。
「一本もらっていいかい」と坊主は申し訳なさそうに私に言った。
「煙草をですか?」
「他に何があるかい」
私は坊主が人から煙草をねだるのを面白く思い、笑いが隠せずに一本彼に渡した。
「何がおかしいんだい」
「お坊さんが人からものを、それも煙草をねだるなんて珍しい話ですよ」
「喜捨しなさい」と彼が笑いながら口に咥え私の隣に座った。火をつけてやると、美味そうにいっぱい吸い込んで吐き出した。それから深呼吸をして、黒縁のメガネを取って、シャツの袖で拭いた。そして大きくため息をつくと、また煙草を口に咥えた。
「読経なんて一日かかるものと思っていましたが、早いものですね」
「ああ、檀家も減っているんだよ。皆よそ者だろう、それに最近はお盆もへったくれもないようなお家が多いからね。しかも更に今年は皆家に人を入れたがらないだろう。商売上がったりだね」
「商売というなら税金も払わないといけないですね」
「食う分を稼ぐまではこっちも商売さ。そこから先は皆さんの功徳ということだよ」
「バイトでもしながらやればいいじゃないですか。私もよそ者です。お寺には一円も払っていないですね」
「それは浄土にいけないんじゃないのかい」
「さっきの煙草で何点か稼ぎましたよ」
「今年は郷に帰れず心苦しいだろう」
「最近の若者はそうでもないですよ。だから読経もへったくれもないんですよ」
「ご家族に会いたくはないのかい?」
「いつだって帰れますよ。それよりも知らない土地でこうやって、知らない人の文化を見るほうが心が躍りますね。郷にも家族にも盆なんてないですよ」
「そんな珍しいものがあるかい?この辺もつまらないことばかりだろう」
「玻璃玉送りがあるじゃないですか」
「どこで知ったのかね」彼は一瞬顔をこわばらせた。
「案内が入っていましたよ。お坊さんは行きませんか?」
「うん。面白いことは聞かないねえ」
「神道か新興宗教か何かですか」
「いや、しかし異教徒は異教徒だよ。新興とは言わないけれど、ほとんどオカルトだよ」
「古い土着の風習か何かですか」
「いや、こんなところに土着の何かが残るわけないだろう。すぐに様変わりする町なんだ。こういう都会の側の町ってものは、十年空いたら景色から人から何もかも入れ替わるっても言い過ぎじゃあない。文化もクソもないさ」
「それならどんな異教徒というのですか」
「言い方によっては仏教でも神道でもあるんだ。そういう宗教とは違って系統の根元にあるものだよ。土着の信仰みたいなものじゃなかったかな。とはいえもう大昔の話さ。明治の頃にはもうほとんど無くなっていたようなものだって聞いた気がするな。何だったっけなあ、父がしばしば話していたんだがね」
「お坊さんはもうずっとこっちのお寺でやっているんですか」
「そうだよ。去年父が死んで継いだんだ。それまでは横浜で靴を売ってたよ。髪だって長かったんだけれどね、もう家を継ぐとなれば全部剃り落とすんだから堪えるよねえ」
「この辺にも百年前くらいまでは狐も狸も走り回っていたんでしょう?土着の風習なんかがあっても変じゃないと思いますけどね。お坊さんが横浜かぶれなだけではないですか」
「君なかなかずけずけものを言うじゃないか。バチが当たっても知らないよ」
「まさか、仏さんはバチなんか当てないでしょう。それは神道やらの考え方でしょう」
「そうなのかい?」
「そうですよ。それより玻璃玉送りは何なのですか」
「盆に川にガラス玉を流している奴がいたらそれは気狂いだと親父は言っていたね」
「そうなのですか?それなら今年は気狂いが多いかもしれないですね」
「どういうことだい」
「私の家に招待状が届いたんですよ。それは、みんな行くんでしょうよ」
「いたずらに決まっているよ。試しに川へ行けばいいさ。誰もおらんだろうから」
「そうでしたか、それより原付があるなら私をうちまで送って行ってくれないですか」
「そんなこと言ったって無理だよ。私は読経の途中なんだから」
「一軒ぐらい飛ばして良いじゃないですか」
「いや、いけないいけない」
「近くですか?」
「ええ。高野というお家なんだがね。どうも、父の代でもほとんどいらっしゃるのを見かけていないらしいけれど、名簿には赤い字で書かれているんだから、行かないわけにも行かないだろう」
「住所は?」
「もうすぐそこだよ。けれどねえ、何度も通ったんだけれど、見当たらないんだよ。もうすぐそこなのに。もう最近は英語で表札を書いている人やら、表札を出していない家もあるんだから、わかりにくくて堪えるよ」
「私さっきその場所を通りましたよ。十分もあれば終わるでしょう?案内しますから終わったら、家まで連れて帰ってくださいよ」
「いやあ、何の為に原付に乗ってるんだか」
「良いじゃないですか。二人で乗ってもばれやしませんよ」
「本当かい?」
「本当ですとも。さあ行きましょう」
 坊主は苦笑いし、再び袈裟を着込んだ。雨はそろそろ止みそうな小降りになっており、原付は公園に止めたまま、我々はコウヤ硝子へ向いて歩き出した。一分も歩かないうちにあの白いコンクリートの建物が見え始めると思われたが、歩けど歩けど見えて来はしない。
 坊主はしびれを切らし、私に「どこだね」と言う。私は慌てて八百屋で頂いた地図をポケットから取り出して、それを見たが、やはりこの辺りのはずである。坊主は取り上げて眼鏡に近づけてじっと地図を睨んだ。
「やはりここでしょう?」
「そうだそうだ。ここのようだね」
 坊主は眉間に皺を寄せて地図と周囲を見比べている。
「まさにここじゃないか」と坊主は呆れ顔で私をみる。
「しかし何もありませんね」
「そうだね。ここは小柳公園だ。私が子供の頃からずっとここは小柳公園だ。ほらあそこに柳があるだろう」
 坊主は肩掛けの鞄からファイルを取り出して、名簿を指で辿った。そこには赤い字で高山秋仁と文字が書かれており、その横には住所も書かれている。
「どうして早く気がつかなかったんだろう。この住所は確かに小柳公演のそれだよ。違いないね」
 次はやはり私が腑に落ちない顔をする番で、つい先ほど硝子玉を買ったコンクリートの建造物がどこかにあるはずだと何度も周囲を見回す。見れば見るほどこの公園の隣接する建物や、目の前の多摩川の土手の木々の様子などが、コウヤ硝子の目前にあったものと同じであるように見える。
「君、どこでこの地図を手に入れたんだい」
「大崎通りの比留間という八百屋です」
「そんなところに八百屋なんかあったかね」と坊主は首を傾げた。
「嘘なんかはつきませんよ。それならこの地図はなんだっていう話です」
「君、狐に化かされでもしたんじゃあないかい」
「そんな、狐も狢ももうこの辺にはいないでしょうし、さっきそんな文化や何やらはこの辺の地域にはもう残っていないと行っていたではないですか」
「確かにそれもそうだな、しかしこれだと来年からの名簿からは高野さんの家ははずさないといけないな」
「まあとにかく帰りましょう」
「どうして私が君を連れていかないといけないのだね」
「お願いしますよ」
「私はお坊さんだよ?」
「人助けをしてください」
「人助けでいうなら君を功徳を積まんとな。そんな人を荒く使って」
 私はポケットから五百円玉を取り出し、膝をついて坊主に渡した。坊主は笑いながら受け取った。
「まったく。しかし、喜捨はいいことだ」
「もち米の方が良かったですか?」
 お坊さんと私はとぼとぼ川沿いの道を歩いた。彼はどうも郷里の府中にはもう親類や同級生などもいないようで、つまらないらしい。この私にも次々身の上話をしているところをみれば、読経で檀家をお邪魔してもいちいち話し込んでいるに違いない。
「いつからお寺を継いでいるのですか」
「去年の秋ごろからだよ。まあ大した仕事なんかないようなものだけどね」
「楽しいですか?」
「つまらないに決まっているでしょう」
 やっと原付の方へ辿り着き、私は狭いながらも彼の後ろに座った。
「本当に警察に捕まりはしないだろうね?」
「大丈夫でしょう」
 我々二人を乗せて原付は川沿いの道を走りだしたが、そのとき既に私にとってのこの街の印象はすっかり変容していた。私にはこの街がすっかり奇妙に変わってしまっているように見えるのである。彼には見えていないのだろうか、彼は一言もおかしいとは言わず、ただ今年のつまらない夏について愚痴を言っていただけである。
 私の目には右手にある住宅街の上にあれが見えていたのである。家々の屋根にはあの忌々しい石像が並んでいるのである。全ての家の屋根の上にそれはついているのである。髪の長い男が手を合わせているのである。
「申し訳ありませんが、公園に忘れ物をしました。戻ってもらえませんか」
「何を忘れたんだい」
「いえ、ちょっと財布が、雨宿りしたときに落としたかもわかりません」
「仕方がないなあ」
 そういって坊主は私を乗せたままUターンして公園へ戻った。やはり、住宅街の屋根という屋根にあの石像が鎮座している。車道の逆側へ行くと、それはよく見える。手を合わせている者の石像、後ろには太く長い尻尾のある、奇妙な石像である。彼の言う異教徒の信仰の対象なのであろうか、私は石像に気がついた。今ならコウヤ硝子の白い建物を見つけられるかもしれない、そう思い私は彼に戻るように言ったのである。
 雨宿りをした公園に戻ると、私は坊主にここで待つように言い、小柳公園すなわち本来コウヤ硝子があったはずの場所へ向かって歩きだした。やはりそうである、遠目にでもあそこに白い建物があるのが見える。坊主の彼が居るが故に先ほど建物はぽつりと姿を消したのであろう。歩道に男が立ってこちらを睨んで居る。高野の老人である。私はその時、やっとゾッとして踵を返した。公園に戻ると坊主がまた阿呆そうに私のタバコを勝手に吸って居るのだが、青ざめた私を見ると、彼は心配して財布はあったかと尋ねて来た。私は頷いて原付に乗るよう言った。
 彼ももう私を後ろに乗せて走ることに抵抗はないようで、さも当然そうに原付に乗って走りだした。私はとても彼にコウヤ硝子について話す気分になれなかった。あの高野老人の睨む顔を思い出し、一つの事柄が思い浮かんだ。坊主からすると、玻璃玉送りの風習は異教であるかもしれないが、高野老人を初めてあの八百屋の比留間老人、三姉妹などの玻璃玉を知って居る連中からみれば、仏教徒こそ異教徒なのだろう。オカルトじみた考えではあるが、その為に坊主には何も見えず、私にだけ見えるに違いない。そのために、私をいつも訝しむ目で見ていたのだ。
 坊主は玻璃玉の風習を、仏教や神道の生まれる以前からあった文化だと言ったが、私にもやっと大体の見当が憑き始めた。日本にあった自然崇拝の文化はくまなく神道に同化されるか制圧されて、現代人の目につくような異教はまず残っていないと言っていいだろう。例えば蝦夷は平安時代に制圧された、山岳信仰は神道と仏教に吸収された。現代に細々残って居るものがあるとすれば、民間信仰のうちでも憑き筋だったり、憑き村と呼ばれるものであるかもしれない。
 それは多数を占める日本人の目から見た異教徒を、取り憑かれて居るとして忌み嫌ったと言うような説もあると言うからもっともである。結局、憑き物だ忌み地だのというのは自分らから相容れない状態を軽蔑して称されたとすることも多く、それなら実態が掴めないままの異教徒である可能性もあるのである。しかし、そんなものも今になってはほとんど消え失せて居る。地方ならまだしも、片隅とはいえ大都会東京なのである。そんな風習がこんなところに残って居るなどということがあり得るであろうか。
 彼は相変わらず、この街並みの異様さに気づいていないらしい。見れば見るほどおかしいではないか。灰色の空の下にある街は異常によそよそしく、また、土臭いあるいは獣臭いものであった。午後の二時ごろであろうか、庭先や通りを行く人がちらほら見えるが皆私には浮かない顔をして居るように見えるのである。家々の門には、藁か何かで作られた、あまり親しみの無い飾りがあり、送り火や迎え火に類するような煙を上げている庭先も目に入る。しかし、おがらなどの煙ではなく、それは何か香のようなものと食べ物を混ぜて燃やして居る匂いなのである。鼻を突くような鋭い匂いが、淡く街を覆って居る。しかし、不愉快な印象のある刺激臭ではなく、ただつんと来る良い匂いなのである。
 空が暗いせいか、妙に鮮やかな色に塗られた家がところどころ目に付く。赤や橙色のペンキで塗られた家がところどころあるのである。もちろんそれらの屋上にも、あの石像が鎮座しているのである。長髪の像が長い尾を上げて祈っているのである。尤も、この石像に関して一箇所で作られているという風ではなく、その形や材質は様々であった。また性別も二通りあるらしい。古びてすり減っているもの、苔むしているものもあれば、コンクリートで新しく作られたようなものもある。どの石像も鼻と耳を尖らせており、長く太い尾を後ろに立てているのである。それらは多摩川をじっと睨んで祈っている。服を着ているものも見受けられる。どれも赤いものを着ている。家の人が屋上に上がり、赤い服を取り替えているのであろうか、私はふと市民がそのように石像の服を着せ替えている風景を想像した。
 やがて原付は賑やかな大通りに出た。反射的に慣れ親しんだ府中の街並みに安堵しようと心が緩んだがそこにも、もう私の知った街の姿は存在していなかった。奇妙な赤い服を着た人間が歩き回っているのである。正面から仲良さそうな夫婦がベビーカーを押して歩いてくるのだが、それらもどこかに赤い布をつけている。赤ん坊のかけているよだれかけもまた赤いのである。母親はスーパーかどこかで買ったであろう油揚げを齧りながら、きゃっきゃと旦那と談笑している。
 家に着くと、坊主はアパートの下にある駐車場に原付を止めて、図々しく部屋まで上がってきた。しかし、私も送ってもらったこともあり断れず、彼を部屋に招いた。
「随分と散らかった部屋だね」
「初対面の人の部屋に上がって、開口一番が散らかっているとは失礼も甚だしいですよ」
 彼は換気扇の下に立って私の煙草を断りもなしに吸い始めた。仕方がないので私は緑茶を入れてやって、押入れの奥から座布団を出し、テーブルの横に放った。
「それで、君は招待状の言うとおり、日が暮れれば多摩川に行くのかい?」
「悪戯だかなんだか知らないですが、行っても別に酷い目に遭わされたりはないでしょう」
「まあ、そうとは限らんと私は思うがね」
 彼はそう言って鼻で笑い、座布団の上に腰をおろした。そして私が半年かけて散らかし回った六畳間を見回して感心しているのである。私は鞄を背負ったまま洗面所へ行き、そこで坊主が見ていないことを確認し昼に買った品を取り出した。間違いなく購入していることを確認しておきたかったのである。やはりそこには紙袋が入っており、中に手を入れると、ひんやり冷たい質感があるのである。私はゆっくりそれを紙袋から取り出した。
 暗い洗面所の光の下で、桜色の玻璃玉はそれ自身が輝いていると見えるほどに眩しく光っている。真珠のような銀の粒はやはり花びらで、それを虹色の風が運んでいるのである。私はふと、内側からこのガラスの玉が照らされて流れていく様を想像し、微笑んだ。
 また元の通り紙袋に玻璃玉を戻し、部屋に戻ると坊主がまるで自分の家であるかのようにくつろいでいる。座布団に肘をついて寝転がり、携帯ゲーム機を取り出して遊んでいるのだ。私はため息をついた。