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サンシャワーシンドローム 10

日没の

 一歩ずつ泡の音は細くなり、場所の定かではない空調の音が膨らみ別の空気に生きている様は切実に感じられるようになった。サイヤミーズビッグカープ、ナイフヘッドと見つめ合い、小型コイ科には逃げられ、ペンキ塗りと水、アクリルに弾かれた濃く鋭い青の光差す中を、自らの足音を場違いになるのを自覚しながら歩き、階段に差し掛かると、タイ語による魚類系統樹の巨大な図を見上げ畏れ多くなった。階上に鉛筆の滑る音を聞き、紙の表面にあるほのかな凹凸を撫でて黒鉛が形を成す様を頭に描いた。階段を登り切ると、一つ明るくなった二階の水槽群を前に男が目を見開いて、膝の上に絵を描いていた。なんとなく居づらさを感じ通り過ぎようとするが、脇目にスケッチブックの上に目を落とすと男は噛みつくような目で僕を睨んでいた。色の白い北部人だった。目を逸らそうとすると彼の持ち込んだであろう折りたたみの小さな椅子が目につき、ここに住んでいるように来る人は自分の他にも居たか、と妙に感心した。よそ者を阻む目――彼らは必ず僕をその目で見つめるのだ、外国人であることを自覚して生きるのは酸欠だった。自分のこれまでに感じたことのない苦しさが湧き上がった。どうしても現地の人間になる方法などなかった。無意識に早足になる中で僕が見つめていたのは水の中から見下ろす老魚らの黒い瞳だった――あの洞のような球を思うといたたまれなかった。淡水のエイたちは砂をホバリングし、そこには何ら敵意を感じられず、大きな毒針のある尾があるにも関わらず、僕は落ち着き深呼吸までした。それからやはり考え直し、絵描きの方へ歩いた――彼は僕を見上げなかった、僕は彼をじっと見つめ、無いタイ語の語彙を絞って話しかけ、ここで書く意味はあるのか、と聞きたかったが何故ここなのか?と僕は言った。今度は睨みつけたりなどしなかった、薄い口髭の下で唇は笑うと意外にも若い少年のような印象がでた。大きな瞳は威嚇せず、眉はハの字に大人しく、下手では無い英語を彼は話した。彼はスケッチブックを持ち直し、僕に女の顔を見せた。見ずに描くのは彼女が空想であるからでは無い、遠くに居て二度と会うことができないからだ。女はまっすぐにこちらを見つめ、眉や瞳は笑っているようだったが口元は決して笑っていなかった。まっすぐ結ばれた唇を見つめているのに気づいたか、彼は悲しそうに首を振った。笑わないんだ、本当に。絵描きの肩まである長くサラサラした髪の毛はどこからか吹くぬるい空調に揺れていた。本当に、笑わない――彼は俯きため息をつくとスケッチブックを閉じ、椅子を畳んだ。大きなトートバッグに何もかも片付けてしまうと、立ち上がった。そのうち閉館だ――彼は戸惑ったように眉の上を掻いて、しばらく考えたのち、僕を夕食に誘った。ンガムヲンワン通りゲートワンの側に水槽のあるレストランがある、酒も飲める、レモンフィッシュも美味しい。出て行き様にメコンオオナマズの水槽を遠目に振り返った。彼らは僕のことには気づいていないのか、淡々とした水の中をひたすらに回っていた。