表紙へ

サンシャワーシンドローム 24

Sunshower Syndrome

 一分も歩かないうちに大きな池が森を開いた。空は大きくなり、夕暮れが鏡のような水面にもオレンジの絵の具を垂らしていた。そして、釣り人らが竿を握っていた。モーターサイクルタクシーのチョッキを来た老人や、体中に入れ墨の入った貧しい若者たちがいた。彼らは皆あかく日に焼けており、痩せていた。アランの姿はどこにもなかったが、人が多いのを見てゆっくり落ち着きを取り戻した。倒木の腰をおろし、彼らが何を思って魚を釣ろうとしているのかを知ろうとした。モーターサイクルの老人のキャップの下には白い髪があった。むき出しの赤茶けた腕に張りはなかったが、彼はしっかりと竿を振った。鏡の水面を釣り針が乱す――音を立ててガラス片のような雫が弾けた。彼らの魚釣りは暇つぶしなのだろうか、それとも夕食か、市場へ売りに行くのか。この高密度で淀んだ時間の中を彼らは何を思い魚を探っているのだろうか。きっと僕と交わることのない彼らの人生を目前にひどく心細くなった。小さな波が足元に届き、頭上の木々の太い枝に波に光が反射して作った網が揺れた。

 老人の竿が細かく震え、次に強くしなった。沈んだウキに彼は頬を緩め、リールを巻いた。向こうから上半身裸の若い男が魚を見に歩いてきた――その様を見て僕も思わず立ち上がり水際へ寄った。水面は乱れ、魚が引っ張られて岸に打ち上げられた。小さなティラピアだった――彼はしばらくばたつき、やがて老人に握られると静かになった。鰓だけがゆっくりと開閉していた。ゆっくりと彼は呼吸をしていた。彼は老人としばらく見つめ合い、それから魚籠に入れられた。老人は別段喜ぶような素振りも見せず、再びミミズを針の先につけて水面へ投げ込んだ。

 木々に映った光の網は乱れていた。彼らが場末の酒場で大きく口を開けて笑う姿が脳裏に浮かんだ。太陽の光はとろとろ揺れ始めた。

 穏やかな心の底を優しく撫でるような風が――吹き上げた――頭上の木々はからから音を立て、土の上に投げられたビニルはふんわり浮き上がり踊った。全てのものごとに風gあ平等にすり寄り、水面を撫で、波を開き、風に心が溶けだすようになった時に匂い――土と枯れ葉が目を覚ましたような匂いが駆け巡った。肌と空気の境界は淡くなり、何かを予感した時、西に傾いた太陽の光が水面に差す角度が、のっぺりと照らされた珍しい景色が物語っていた。

 土に浮いたビニルは沈黙し、空が瞬き、のどかなオレンジの世界は音に埋め尽くされていた。風が時間の流れを変えたのだった。水面に風の作っていた幾何学的な波は乱れ始め、弾けるように無数の波紋が広がる、そしてやがてそれらが全て繋がっていった。もはや水面は鏡ではなく光を錯乱させていた。

 雨が降っていた――どこからともなく現れた雲は一握りほど小さく、太陽は阻まれず照らし続けるが、落ちる水の粒は大きな音を立てて水面と空気を繋いだ。耳に空白が消えた。水面を叩く無限の音、木の葉を地面を隙間なく叩く、点描のように人の脳を支配した。なぜこんなにも美しいかと僕は彼女に尋ねた。

 それは、太陽が翳らないでいるから。

 水面から浮かんでいるように見える飛沫を、夕焼けが貫くと忽ち金剛石へ変わり、雨が視界を溶かすので僕は嬉しくなり木の下から歩き出て行った。賑やかな岸辺に立ち、降り止まぬ雨と翳らない太陽を仰ぐ――夕焼けと雨が張り合う――全てが強く湿り赤く染まっていた。首を伝い雫が胸を垂らし、頬に髪を張り付けた――僕はそれを払い笑うしかなかった。釣り人たちはビニールの合羽を出して落ち着いたまま被っていた。僕は傘も合羽も持っていないが平気だった。空が泣くのは、彼女が交じり合えない他人同士に遣る瀬無さを感じたからに違いなかった。彼女はいつだって慈悲に満ちていた。老人は合羽を着終わると、原付の籠に入れてあった食いさしの鶏肉が入った袋の口を縛った。そして、僕の方へ歩いて来たらタイ語で何かを言った。恐らく外国人か?とか聞いたのだろうと思い僕は日本人だ、と――そして魚が、この国や、雨が好きなのだ、と下手な言葉を繋いだ。彼は笑って、また空を差して微笑んだ。雨粒がビニールの合羽に当たって弾ける音が我々の会話だった。彼は何か呟いて首を降った。止みそうにないな、と思い僕も同意して首を振った。帰るよ、と僕は言った。彼は原付の籠からプラスチックの包みを手に取ると、僕の方へ投げて寄越した。中には紫色の、使い捨てビニール合羽があった。土砂降りのサンシャワーの下で僕は見上げ、「ありがとう」と言った。