第二章
電飾や人だかりの足元に落ちて光る鱗
1
確かに人は少しずつ僕の前に現れ出した、ノックケーオの言った通りだ。二月の中旬、農業祭で大学がすっかりテントに覆われ、授業もなくなってしまった頃、ヴシィーヌが僕の最初の友人を家へ連れてきた、ナマズだ。この日本人男はもう三十にもなろうか、ついに博士号の課程も終わりかけて――丸い縁ののメガネをかけて、ヒゲなんかもはやしてすっかり学者気取りなのだ。「何しに帰ってきたんだ?」と僕の方から声をかけた。ナマズは笑った。
「川や、ちょっと用事あんねん」
「どうせ網をほりこんで、いっぱい魚をひっぱりあげて、内臓ぐちゃぐちゃにして、遠心分離にかけて、わかりづらいグラフにするだけなんだろう?」とヴシィーヌがバカにした。
「チャオプラヤか?もう、あんな川には何も沈んでないぞ」
「失望ってのはな、俺に望みがないって話やないねんで。お前が望みを失っとるわ、わかるか?網ほりこんだら欲しいもんは大抵上がる。ほんで俺はもうチャオプラヤの底は大抵さらった。次はメークロンでやんねん」とナマズは言った。
インドと日本からの刺客は黒い足で私の部屋に入ってくるかな?僕はは身構えていたが逆だった。僕はそのまま部屋から引っ張り出され、タクシーに押し込まれ、知らないネオンの方へエンジンによって運ばれることになった。
ナマズはタクシーでずっと黙っていた――店が見え始めたとき、彼は一錠の薬を飲んだ。
「老いぼれめ、若者ぶるなよ」と僕はナマズの目を見ないで言った。ナマズは返事をしなかった。学業という名目で彼が引き伸ばしていた青春が今にも終わろうとしていることにナマズ自身気づいているのだ。向かったのは、どう足掻いてももう会うことができない兵役逃れ、ボスという男が気に入っていた激しいネオンのついた酒場だった。繁華街から五十メートルほど歩く裏道でこっそり営業しており、ステージでは全身網タイツの女の子が点滅する光の中で踊っている――彼女たちは本当に心の底から面倒臭いという顔をしていて、僕らはどのように転げ回ってもいやらしい気持ちにはならない、ポールは踊りの道具ではなく、寄りかかるため仕方なく掴んでいる銀色の棒にすぎない。赤と緑の光が女の子の二種類の表情を晒し上げる。どうして今すぐにでもベッドに沈んで死ぬまで眠ってしまえないのかと疑問する表情、明日の昼飯は何を食ってやろうかなと策を練る表情だ。黒い網タイツに締め付けられた乳房は貧しく痩せている、暗い色の乳首は一切の緊張をも孕んでいない。腰の辺りには年のわりに疲れた皺が二、三本刻まれ、ネオンの下で最も溌剌とし、表情を変える。皺の先に縦に伸びた臍、そして豊かな陰毛が生えている。陰毛は微動だにせず、彼女たちにも僕らにも平等に明日が来ることを物語っていた。
テーブルにビールが運ばれてきた時、「日本人は好きだよなあ」とヴシィーヌが口を開き、あどけない大きな瞳と白い歯をこちらへ向けた。これは今はいないボスがいつもここへ来るたびに言っていたセリフだった。ナマズも僕も、もうひとりのタイ人であるクラサも、ヴシィーヌも、ここへ来るのが好きではなかった。ボスだけがここを気に入っていた。成金気分を味わうために酔っ払いたいような男だったのだ。
ナマズは帰る時いつも、会計の安すぎるのをみて、女の子たちはいくらもらっているんだろう?と他の人間に聞かれないよう日本語で僕に尋ねた。どうしてナマズがここへ来たがったのかが分かっているから、ヴシィーヌはあの頃と同じセリフを吐いたのだ。もう会えない人との思い出、隠されず目の前で踊っている格差、これらとも最後のお別れになるのだ。ナマズは来年の四月にはもう苦学生ではなく、仕事に付き貧乏人から搾取する側の人間になってしまうのだ。そして時代は本来見つめられるべきであるこのような生き生きした人間の表情をを覆い隠していく。それも体裁を整えるために行われるだけだ、彼女たちはブルーシートの目隠しの向こうでこれからも踊り続けるに違いない。「ヴシィーヌは昼間何をしてるんだ?」とナマズは三人分のビールを注ぎながら尋ねた。
ヴシィーヌは「ナッシング」と言って笑った。
「ナマズさんは氷入れるんだっけ?」
「普段はノーやけど、今日は入れてくれや」僕がナマズのコップに氷を入れると、実は話し足りなかったヴシィーヌが人生のビッグプランを語りだした。
「勉強しないといけないことが山ほどある。タイにいるからマシに見えるだけで、インドに帰ったら俺のうちだって金持ちではないからな。大学院へ行ってそれが終わったら家の農業を継ぐ、ようやく人生の本当のチャプターが始まるんだからな、今俺は金持ちになるのが楽しみで仕方がない。ナマズはこれから何になるんだ」
「政府関係の開発支援事業にも応募してるけど、基本線は民間の水産系だな」
「魚なんかなにが面白いんだ?」
「良いじゃないか、お前はインドじゃ明るい方の肌か知らないけどさ、魚の鱗は光にあたったら光るんだぜ?そういうのと比べたら偉そうにもしてらんない気持ちになるだろう」と僕は言った。
「俺より偉いからイチロウは魚が好きなのか?」
「決まってるだろう。ナマズさんもそうだろ?」
「ヴシィーヌは泳げるのか?」
ヴシィーヌの顔の鼻から向こう側だけが緑のネオンに照らされていた。彼はビールを飲んで顔を右手で拭った。「クラサには会ったか?」と僕は英語でナマズに尋ねた。当時よく一緒に飲んでいた仲間の一人であるタイ人のクラサは、僕が療養で日本に帰っている間に大学を卒業して、日本の大学院に進学していた。
「春先はよく会っていたが、夏の終わりからは連絡も来ていない」とナマズは言った。
僕たちは平和にクラサの思い出を振り返っていた。あの男がいつも笑っているのにほとんど酒を飲まなかったことや、それでも必ず飲んでいるような顔をしていたこと、そして自分が最も貧乏であるというような表情をしていたことなどだ。実際は驚くような貧乏ではない、無理なく大学に通えるのだから。突然ネオンが消え、暖色の小さな電球が店に灯った。ひとりの女の子があくびをしながら二階から降りてきて、誰に挨拶をするでもなく帰っていった。ポールに寄りかかっていた二人も腰を揺らすのをやめてダラダラとお喋りを始める。給仕の男が会計を持って現れ、ナマズが現金で支払っているのを上の空で話しながら眺めていたが、やがて閉店の時間になっていることに気がついた。ナマズが最初に立ち、貧乏性の僕とヴシィーヌは残っていた酒を全部飲み干してから立ち上がった。
立ち上がって初めて思いの外酔っていることに気がついたが、空はもう薄青い色になっているのでこれ以上飲むことはできない。明けていくのを恐れて僕は空を睨んでいた。路上のブリキのテーブルセットには、バンコクの若者たちが過ごした昨夜の幸せな時間と、ビールが三割残されったコップ、そして大量の空き瓶が並んでいた。タクシーを待っているときにヴシィーヌが口を開いた。
「クラサはタイに帰ってきているよ。空港に迎えにいった、俺はお前らがいないし、ボスも行っちまった後だったんで、心細くって話しに行ったんだ。クラサはすげえ青い顔をしていて俺とはロクに口を利いてくれなかった。でかいスーツケースを引きずって、バスに乗ってカンボジア国境に近い故郷へと帰って行ったのさ」
ヴシィーヌが話している途中でナマズはタクシーを捕まえに車道へ出て行った。僕は黙ってヴシィーヌが話しているのを聞いていた――が、ナマズがタクシーに行き先を伝えたのを見て乗り込んだ。頭をかきながら屋台を押している老女を眺めていた。警察がヘルメットもつけず原付に乗って烟草を吸っていた。明け切っていなかった空がオレンジがかってきていたので僕は窓の外を眺めるのをやめた。携帯の着信履歴を見た。アヤメからの着信は深夜一時二十分、つまり日本時間の三時二十分だった。そのとき僕は、見知らぬ女の子が裸同然で退屈そうに赤と緑の光のなかで踊っているのを黙って眺めていた。ナマズは誰にも気づかれないうちにひどい酔い方をしていたらしい。助手席でひとり泣いていた。もし僕がひどい酔い方をしたらこんな静かには泣いていなかっただろう。関係のない人に当たり散らし悪態を垂れ流しながら泣いていたはずだ。ナマズは何も言わない。朝の太陽が恥ずかしい僕の横顔を睨んでいた。