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Short Stories 2023 象の宴

 三匹の象が広間の中央で芸をさせられていた。彼らはときどき休む、象使いはそういうとき烟草を吸いにいく。戸惑いながらもひと鳴き、ふた鳴き、誰も叱らないとわかると象使いたちが置いていった鞭を長い鼻でつまみあげて、仲間に見せてみたり、振り回して遊んでみたりした。芸を見ているよりこの方がよっぽど面白い。
 ねえ、そんなことない?
 隣に座ってぼうっとしていた女は驚いてこっちを見て「そうね……」と言った。そして思い出したかのように角度を変えて、前の小さなテーブルに載ってあるバケツカクテルを持ち上げると、自分のストローを探し、結局それがどれだかわからないので青いのを摘み上げてついーっと吸った。そしてシャーベットをかき混ぜて、もうひと吸いして、眉をしかめ、目を瞑ってじっとして、それから烟草の箱を触り始めたが、しばらくして、さあどうだろうね、と言った。僕らの席にはもう彼女しか残っていなかった。皆どこかへ踊りにいってしまったのだ。
「あなたが思っているほど、嫌な話じゃないかもしれない」と彼女は言った。
「俺は動物虐待だとでも言ったか?」
「いいえ。言ってないけどそう聞こえた。」
「ならそうなのかもしれない」隣にいたので話しかけたが、彼女が誰かを僕は思い出すことができなかった。自己紹介をされたのは覚えていたが、真面目に聞いていなかった。きっと相手にしても同じことだ。ここに来て紹介された人のなかで名前を覚えている人はひとりもいなかった。
「私が言いたいのは、象と象使いは仲良しなのかもしれない。少なくとも息があっているように思ったけど。」
「餌がほしいだけさ。」
「だとしたらどうなって欲しいの? 単に冷笑的なだけで理想なんかないんでしょう? 文句いう資格なんかないの。祈りなさいよ、三頭の幸せを。」
「文句なんか言ったか?」
「同じことよ。そう、烟草いかない? ここまるで蒸し風呂じゃない、ちょっと風に当たらないとダメになりそう。」
 僕はポケットの中に烟草とライター、そして財布があるのを確認して立ち上がった。
「携帯電話はいいの?」と彼女はテーブルの隅に置いてあるのを指差した。一瞬とろうかとも思ったが、僕は首を振った。
「壊れているんじゃないかな。」
「あなたのじゃないの?」
「だからいいって。」
 僕は彼女の鼻がピクりと動いたのを見逃さなかった、だがその表情がどのような感情を表しているのかを理解することはできなかった。他人にどう思われているのかを過度に気にする癖があると自分で思っており、他人の顔を見ていたと思ったらそこに自分が映っていたなんていうこともざらにあった。それでは面白くないので今日だけは忘れることにして、ウェイターから酒をもらって飲んだ。一息に呑んだが、中身はラオカオのショットでカッとした。
「これグラスは床に投げつけるべき?」とぼけてみたら、ぎりぎり笑ってくれたのでめちゃくちゃ嫌われているわけではないのだなと安心した。後ろで象のラッパが聞こえる、ショーがまた始まったようだったが、パーティーの客はもう誰も象に興味を示してない。ねえ、それってなんか悲しくない?
「うん。それは、本当に悲しい気がする」
 バルコニーに出ると広い国道の車通りが耳に迫ってきた。彼女は手すりに寄りかかって街を見下ろした。都心は夜中でも片道四車線いっぱいに車を詰めている。飛行機からみるとこれは植物の葉脈を顕微鏡で見たのと同じに見える、初めてここにきた時もこの国道一号線を通って町に入った。そんな昔話が次々と起こってくるがそんな昔の話でもないし、昔話を聞きたい人などはいないから口を閉じたままに道を眺めていた。
「ねえ、誰の何で呼ばれてる人?」
「どうして聞くの?」
「だって何も知らないものね」僕が笑うと、彼女も笑い、どうせ忘れるつもりで飲んでるんでしょう、と言った。さあ、どうだろう。べらべらと喋れば喋るほど忘れなくなるかもしれない。どうせ忘れてしまう、自己紹介は一回やったんだから。だが結局改めて尋ねることはしなかった。僕は彼女に、故郷に象はいたか?と尋ねた。彼女は首を振って言う、ただジュゴンはいた。なるほど腑に落ちたような気がしたけれど、それは単にジュゴンも象もグレーだったからだろう。
 その後僕らは烟草を三本立て続けに吸って元いた席にもどり、象がショーを終えて休んでいるところを眺めながら、延々とラオカオを煽り、故郷の話をし続けた。だが、僕はその会話を一つも思い出すことができない。
 目覚めた時、僕らはびしょ濡れだった。場所は僕の住んでいる鳥籠と呼ばれている古いコンクリート造のアパートのシャワールームのタイルの上で、僕らはぬるいお湯のシャワーを浴びながら寝転んでいた。温められたタイルがどうにも心地よくて眠ってしまったらしい、でもどうして僕らが服を着たままシャワールームで横になっていたのかはわからない、彼女の長い黒髪もびっしょり濡れていた、熟睡はしていないらしく、彼女はもぞもぞ手を動かしたり、小さく母国語で話したりした。小さな窓からは朝の太陽が入り込んでいて、壁のタイルに何度も反射して僕らの顔の高さで跳ねているシャワーの粒もキラキラ光らせていた。僕は立ち上がって、Tシャツをよく絞ってからシャワーを止めた。そして、もう一度Tシャツを絞り、自分の部屋であるならば着替えた方がいいだろうと気づき、シャワーを出て、服を脱いで急いで体を拭いて着替えた。そしてシャワー室に戻り彼女の肩を揺すった。彼女は目を覚まし「オレンジすぎるから天国にきたかと思った、」と一言、「どうして濡れてるの?」僕は首を振った。彼女にバスタオルとTシャツと短パンを貸してやると「下着はどうしよう」と言ってきた。嫌じゃないなら僕のを履いてしまっていいけれど、嫌だろう? と言うと彼女は首を振って、それは嫌だな、と言いシャワー室の扉を閉めた。烟草を吸いにベランダに出ると誰かからもらったらしいジョイントが灰になっており、そのせいで変な寝方をしていたんだな、と気づいた。そして雨漏りのしみがたくさん残った灰色の天井を見上げ、昨夜彼女と話していたことを一つずつ思い出していた。