目が覚めて、彼女は夢を思い出そうとしたが、それは上手くいかず、諦めて窓の外を見ると赤々とした街があった。そして、まるで今の方がむしろ夢の中なのだと思いはじめた。ラルに話しかけようと振り向くと、車内には何人かの河童が乗っていた。やはりいずれもレインコートを着ている。紺や茶色、深い緑などみんな暗い色のものを着ていたが窓の外に広がっている町にはラルのように鮮やかな色のレインコートを着ている河童がいる。
ラルについて列車を降りると、街は彼女の思っていたものより活気に満ちていた。行き交う河童はアメコの知らない言葉を話している。ラルは確かに日本語を話したが、ほかの河童たちが話す独自の言語らしいものは、彼女には全く判別できず、ただの音のように響いた。町はすり鉢状で、停車場はその縁にあるから、彼女には町全体を見渡すことができる。彼女がこれまで旅行したどの街よりも美しい街並みだった。
一様に染み込んだ時間が建物と建物の間に調和を齎していた。町は温かく湿った印象を持っていた。赤っぽい街の灯りは、列車に生えていたかずらの仲間とほとんど同じように見えたが、一つ一つの実は人の頭ぐらい大きい。灯りは赤から橙の強い光で街を照らしており、停車場や列車で見た淡い色のものとは根本的に印象が違った。建物は東洋建築に見えるものが主だった。瓦屋根の楼閣のようなものや平屋がほとんどだが、円筒状の美しい近代建築も見受けられる。しかし、未来そのもののような建物も町並みを崩さない風格を保っていた。
ラルはひとまず彼女を家へ案内するといった。すれ違う河童たちは人間のアメコを見ると、笑いかけ手を振ったり、握手を求めて来もする。とても人当たりのよい種族らしい。河童たちの手は彼女が思っていたほどぬめってはいない。湿度のようなものは感じられたものの、それは触り心地が良い手であった。人のものより硬く、少し体温が低かった。ラルもすれ違う河童と頻繁に握手をしていた。
「ここはどこなの?」
「ここは河童の首都さ。人間の首都の地下に広がっているんだ」
面積からいうと新宿と渋谷を足したくらいの大きさしかないが、深く広がっているため東京に住む人間と犬と猫を足しても適わないくらいの河童がここで生活しているらしい。
一旦街に入ると彼女は深く街があるというのがどういうわけなのかを理解した。ただすり鉢状に高さがあるだけではなく、道の至るところに階段があり、それを降りると街の裏面にも建物が立ち並んでおり、そこから更に下層の街に続いている。
「どうしてみんなレインコートを着ているの?」至る所でたむろしている河童たちを見てアメコは尋ねた。
「昔、水が汚れてしまった時代に水分を失わないよう着始めたんだ。今では自分たちで綺麗な水を作ることができるようになったけれど、今もその名残、伝統」
彼らは路肩の屋台で買ったであろうラヴァランプのような色の飲み物や、トルコアイスと餅を合わせたような粘土の高い半透明のものを食べている。キラキラした金平糖のようなものも売っている。かずらの街灯の下には机があり、その光で河童が書き物や読書をしている。踊り場では討論をしているのもいる。河童にも文化があるのだ。ラルは討論をしている河童に声をかけ、握手をして、そうかそうか、と言う風に面白そうな顔をしていた。
「握手ばっかりね」
「握手はね、河童にとっても大切なコミュニケーションなんだよ。人間のそれと同じようなものだけれどね、」
そういって、ラルは手を広げて彼女に見せた。指と指の間に、澄んだ川の水のような青い半透明の水かきがある。水かきの縁は宝石のようにキラキラ光っている。
「この膜はね、人間では退化する一方だけれど、河童の間では別の目的で進化したんだ。こうやって握手するだろう」そう言ってラルはアメコの手を握った。アメコは不思議そうな顔でラルの顔を見つめ、頷いた。
「すると、この親指と人差指の間の膜が触れ合うんだ。ここには人間にはない特別な神経が通っているんだ。縁が光っているだろう。これは神経の先、シナプスの先端に電気信号がぶつかっているからなんだ。握手すると、人間のシナプス間隙と同じ状態になって、神経伝達物質がお互いの体に交換される。他人と神経をつなげられるんだよ。便利だろう。僕たちは長々と話をしなくても、相手の思うことや記憶を共有することができる。記憶も感情も、共有される。一見、全てをさらけ出すのは恥ずかしいことに思えるけど、結局どこの感情に触れられると恥ずかしいとか、そう言うこともわかるから、気を遣うまでもなく、察するまでもなく、手に取るようにわかるから、喧嘩になんかなることがないんだ」
アメコは目をぱちくりさせながらラルの解説を聞いていたが、結局「頭では理解できるけど、実感が湧かないわ。でも、すごく便利そうね」と笑った。「僕たちも神経を繋げられたら、君も実感できるのになぁ」とラルは言う。「それができないから実感できないんじゃない。とにかく、その膜、とっても綺麗だわ」とアメコは言った。
不思議な光景の中を彼女は二、三十分程度は歩いただろう。ラルの家は三層目にあった。屋敷じゃ大きな池を屋上に湛えた三階建てのガラス製の円錐だった。全面が窓になっているが、泉のような水が屋上の池を溢れ壁面をくまなく流れ、すりガラスのように内側を隠している。橋を使い建物に渡り、屋上から部屋に入る造りである為、屋上の池を一階、それより下を地下一階、地下二階と呼称すべきとも思えるが、これはそもそも地中にあり建造物である。しかし、壁は地面に塞がれていない上、最下階は街の裏側に突き出ている。
屋上の池には小さな太陽のような透明な浮きがいくつも浮いていて、他にもここでしか目にしない光る水草のようなものが生えている。だがその他は地上の生物のようだ。ラルはビクの中からその池へナマズを放した。池の水は限りなく透明で、彼女の知っている魚、メダカや、鱒やタナゴが泳いでいる。水深十センチほどの水面下の小道を歩いてアメコは中央の井戸のような仕組みへと歩いた。井戸の周囲からは泉のように水が湧いているが、井戸の中には水がなく、用途からすれば井戸ではない。それが室内への入り口である螺旋階段室なのだ。階段を下りて部屋に入ると、池の水底が透明になっている。池にあった発光物の光を透明の砂や土が撹乱し、部屋の中を柔らかく照らしている。
ラルの家に着くと彼女はソファーに身体を投げ出した。続いてリュックサックを床に放ると、キラキラとした水晶のような天井を眺めて息を吐いた。ラルは飲み物をコップに注ぎながら、アメコにゆっくり休むよう言った。
ラルはアメコに苦い飲み物を振る舞った。それは果物のジュースらしかった。よく疲れがとれるのだ、とラルは言った。その飲み物を一息に飲むと、アメコはソファーに倒れこむように座り、そのまま目を瞑った。
彼女は手紙が来て以来、満足に眠れていなかったが、その日やっとぐっすりと眠ることができた。目を覚ますとアメコはゼリーの粒を敷き詰めたような透明の不思議なベッドにいた。どうやらラルの家の客間であるらしく、扉を開けて階段を上がると机でラルが何やらどろどろとしたスープのようなものを啜っていた。机の上には見覚えのあるカセットプレーヤーがあった。
「ねえ、それ。私のじゃないかと思うんだけど」
窓からは街の温かい薄明りが差し込んでいた。時間は分からない。起きたばかりのアメコに、おはよう、とラルは挨拶をした。アメコは十三時間も深く眠り込んでいたらしい。その間にラルはアメコを待っていた仲間の河童に、彼女の到着を伝えにいき、その後はひとりで街の中央にある大浴場で泳いでいたらしい。
二人は屋上の池へ行き、そこで魚と浮かびながら話した。ラルは彼女に河童という生き物について少し話した。
「河童は明治にはもう全員が地下に住んでいた。それまでは森に棲んでいるのも居たんだけどな」
「だから江戸時代が終わってからの目撃例が少ないの?」
「そう。それまでは僕らもよく日光を浴びていた。僕たちが急激に進化を遂げ、文明を築いたのは地下に潜ってからだった」
地下に移住して、妨げられていた河童の本来の進化は堰が外れたように急激に進んだ。もともと百年から生きていた長寿の種族だったが、まずは太陽のない空間に適応し、その過程で高度な世代交代の術を手に入れ数を増やした。今の人間の百年分の文明発展が十年のペースで進み、彼らは記憶と肉体をそのままに世代交代する医療技術を手に入れた。一個体で十七回世代交代を行い、計算上は何千年も生きることができるようになったらしい。実際まだそれだけの時間が過ぎているわけではない為、実証はされていないが、少なくとも街に居る河童たちの大半は江戸時代からの記憶を持っている。
「地下ではしなければならないことがたくさんあった。だから僕たちは人間の百倍発展したんだ。地上の文明はもう頭打ちになっている。なにもかも飽和しきっているんだ。でもここでも文明の目に見える進化はほとんど止まっている。今は目に見えない発展、精神面での進化が起こっている最中だ」と彼は言った。
「どうしてそこまでの技術を持ちながら再び地上に戻らないの?人間を侵略することだってできるのに」とアメコは尋ねた。
「必要がないんだ。精神の進化は結局、現状に満足すること、そして保全することに行きつく。人間が生態系に手出しすべきでないのと同じことさ」とラルは言う。科学を正しく操るためにはそれに見合う精神性が不可欠なのだ。
ラルはアメコを連れて街に出た。太陽こそないものの、その世界は確かに理想的に見えた。植物でできた街灯、その植物を育てる為の河童が改良した発光植物、匂わない水路、ごみのない路上、高い技術がそこここに垣間見えている。だが、生活のスタイルそのもの、人生のなんたるかは一見一世紀前から変わっていないように見える。急いでいる人間はいない。ゆっくりとした世界で彼らはいたってシンプルに生きているのだ。
太陽光の差さない、静かで柔らかい光だけの街を二人は歩いた。
河童の街のシステムは彼女が想像していた通り至ってシンプルなものだった。河童たちは自分の生活に必要なことを全て、一から十まで自分で行う。料理をするのはもちろん、食べ物を育てるのも、レインコートを拵えるのも、家を建てるのも全部自分で済ませてしまう。その為街には店という店が多くは存在しなかった。病院もない。どの河童も自分のケガや病気を自分で処置し治療することができた。これら全てを自分で済ませて尚かなりの時間を余らせ、その空いた時間を彼らは自分の好きなことに費やした。絵が好きなものは好きなだけ絵を書き、言葉が好きなものは好きなだけ文章を書いた。科学好きは自分の部屋にこもり研究所を築いた。音楽が好きなものは歌を歌い、楽器を奏で、踊った。料理が好きなものは好きなところに屋台を出して皆に振る舞った。
彼らは他者と時間を共有することを愛した。街には人々が会うための場所が無数にあった。人が人と会うために、彼はカフェを作り、広場を設け、町中の踊り場にベンチを置き、街灯の下にテーブルを置いた。
自宅に戻る途中一人、白い河童がラルに声をかけてきた。赤いコートを着た、赤い瞳を持った河童である。
「こいつはコリンと言って、先天的に色素欠乏症を患っているんだ」
確かに緑や黒の河童とは何人もすれ違ったが、白い河童を見たのはその時が初めてであった。彼女は彼と握手をして、アメコと言う人間でラルにここへ連れて来られた旨を伝えた。コリンの手には水かきがついていなかった。
コリンはアメコが来るのを待っていたと言う。一郎のことを知っているのかと尋ねると、その話は家についてからにしよう、と彼は言った。好きなことを好きなだけすることのできる河童たちは、ほとんど自分の得意分野を持っていた。好きなことに熱中しその分野に人一倍精通した。それが個性の半分を占め、人間でいうところの職業と同じようにその人を物語った。
ラルは地上の生き物に精通していた。特に魚の生態を熟知し、それらを育てることを生き甲斐にしていた。ラルの親友であるアルビノ河童のコリンは医療に精通していた。だが、地上でいう医者とは多少性質が異なっている。なぜなら、先述の通りほとんどの河童は自分の身体の面倒は自分で見るからである。彼が興味を持っているのは人間という種族だった。人間の身体に関し熟知しており、彼の知識は人間の医学を軽く超越していた。治療の領域を広く凌駕した知識、先進的な生体科学を研究し、話を聞く限り、映画でしか存在しない未来の天才科学者そのままのことをしているようである。
尤も、人間のアメコから見れば河童の世界では皆がSF映画の天才科学者のようだった。建築家も農家も料理人もみなやっていることは同じように彼女に理解できないことだった。彼らの知的レベルは平等に人知を超えていた。差はそのひらめきと知識をどの分野にインプットしているかだけであった。
ラルの家へ戻ると、コリンはまるでそこが自分の家であるかのように、円卓に添えられた大理石の椅子に腰を下ろした。
「それで、あなたは一郎のことを知っているの?まさか切り刻んで、」
コリンは大笑いして首を振った。ラルはあの苦い果物ジュースを持って席に座り、一郎と初めて会った日のことを話した。
「僕はねある絶滅危惧種の魚を探して京都の桂川へ行った時に一郎くんの死体を見つけたんだ。あれは確か三年前の今頃の話だったかな」
ラルは土産がわりにその死体を河童の街に持ち帰り、コリンにくれてやったのだという。コリンが見たとき、死体の顔は笑っていたのだという。コリンはてっきり彼が誤って川に落ちたのだと思い、気の毒に考えて蘇生してやったのだと言う。それで、生き返った一郎が眠っているうちに大仙古墳に放り捨てて帰って来たのだと言う。イタセンパラとアユモドキ、その二種の魚が彼のお気に入りらしく、数が減っているのを危惧して頻繁に関西へ出向いて、純系の稚魚を放流するらしい。
また次の週、ラルがアユモドキを見に桂川へ行けば、また一郎が死んでいたのだと言う。今度は悲しい顔をしていたと言う。面白半分で持って帰って、再びコリンが蘇生し、大仙古墳に放り捨てたら、今度は一郎が自分でこの場所を見つけて、入って来たのだと言う。その後どうなったのか、とアメコはコリンに尋ねたが、しばらくここに住んで最後には地上へ出て行ったと答えた。
「それで、一郎はどうして私のところへ戻って来なかったの?」
「今の彼は別人なんだ。同じ顔をして生まれ直したようなもんでさ、きっと君のことも覚えていないんじゃないかな、本当に死んだんだから」そう聞いてアメコはため息を吐き、ラルの貸してくれている部屋に戻っていった。
にわかには信じがたい話だが、その日から、アメコは河童の街で暮らすようになった。初めのうち、アメコは一郎が自分を捨てたと感じ、塞ぎこみ、悲しんでいた。自分のことをもう覚えていない一郎を探しに行こうかとも考えた。しかし、そうすることでまた悲しい思いをするのかと考えると、今のままこの地球の淵のような場所で停滞している方が楽に見えた。半年もすぎると、そのうちに少しずつ一郎が自分を消し去った理由を理解するようになり、また同様に一郎の行為に同情するようになった。彼女は多くの河童の友人を作り、ほとんどの河童が恋人を喪失したアメコに同情し、好意に接した。
街の郊外にある農園でアメコは日々の大半を農作業に費やして過ごした。彼女は気を紛らすよう一生懸命に働き、自分が生きているということ以外の難しいあれこれから目を背けて生活した。彼女は半年間その河童のユートピアで暮らしていたが、ある河童の死を目撃したことをきっかけに、彼女の現実逃避の日々は終わった。
その日は葬式だった。河童の死は受動的なものではない。それは積極的な選択なのだ。何故なら、河童は自ら死を選ばない限り死にはしないのだから。河童は満足をすると死を選択する。その世界で死は幸せなものであった為、河童の葬式は温かい祭りなのである。サルクが死を決断したと告げた時、アメコはその場にいた。
朝、突然ラルの家の扉が叩かれた。アメコがゆっくり歩いていき扉を開けると、街では一度も見たことのない顔をした、青紫のレインコートを羽織った河童が一人立っていた。それは百年ぶりに首都に帰って来たラルの弟河童、サルクであった。
ラルに互いを紹介され、三人はテーブルを囲んだ。サルクの持って来た葡萄酒を飲んでいた。それはこれまで飲んだどのワインよりも味に深みがあり、地上のどんなぶどうよりも旨く、アルコールにはしなやかだが強い酔いを感じさせる何かがある、そういう不思議なワインであった。サルクは富士の地下に広いぶどう農園を作り、そこでワイン農家として暮らしているのだ。
サルクはヌーシャテルの幻の葡萄酒について話した。ヌシャーテルというのはスイスのある地名であり、湖のそばにあるらしい。その幻の葡萄酒は毎年できる訳ではない。環境や気候の微妙な変化で出来が左右される。なんでもその幻の葡萄酒というのは、注ぐと星の形の泡を作るという。味はもちろん、素晴らしく酔えるのだとサルクは言う。
そんなものがあるものか、とアメコが疑うと、サルクはアメコの片手にある空のワイングラスをランタン灯の下に出させた。そして彼は、青銅色のガラスボトルを傾け、彼女のグラスに少し注いだ。
アメコは黙って見つめていた。そのワインは、ほとんど沈んでしまった太陽のような色でグラスの中を駆け巡り、暗く落ち着いた瞬間そこに青い星が光った。スピカやシリウスのような眩い青色の泡が無数に散らばった。それは確かに星の形をしている。彼女は不思議そうにグラスを持ち上げ、ゆっくりぐるりと回したが、その泡はもう既に消えていた。サルクはこのワインを常に作り続けられる農園を作る為に四百年生きて居たと言う。四百年前といえば、ちょうど江戸時代の少し前ということになる。ラルは弟と明治になった頃から会って居なかったらしい。このサルクという河童は幻のワインを作る為にほとんど誰にも会わず富士の地下に暮らして居たのだ。
ラルがワインを飲み終えるのを見て。サルクは、言った。「お兄さん、僕は死のうと思う」ラルは涙を流して喜び、アメコも理解できていないにも関わらずもらい泣きをした。兄弟は長い間抱擁し、泣いて祝っていた。
アメコにその美しい光景を長いこと眺めていた。サルクは泣き止んで、兄に三日後に死ぬことに決めたと告げた。そして、富士の火口に死んだ後に残った水を撒いてくれと言った。河童は死ぬとすっかり水になって消えてしまうのだ。後に残るのはレインコートのみである。河童の墓に埋められるのはレインコートだけだ。
約束事を全て決めてしまうと、サルクはやっと安心したように立ち上がり、最後に街を歩いて見ておきたいと言った。その日用がなかったアメコがサルクと一緒について行くことになった。ラルはタナゴが産卵したため卵を移動させると言って家に残った。外を散歩しながら、二人はなんでもないようなことを長い間話していた。サルクが前に人間を見たのは江戸時代の後期であったと言う。
その話のついでにふとサルクが問いかけたことがきっかけで、彼女の非現実的世界での現実逃避は出口を開いた。彼との会話が遂に彼女が我に返るきっかけ、この竜宮城的な場所を去る原因となったのである。街の大テントで音楽を聴いていたときの出来事だった。河童のジャズはスウィングではなく水の波に揺れていた。
「アメコさんは何のためにここに来たんだい? もう半年も経つんだろう。人間を多く見てきたわけじゃないけれど、君の身体はもう長く保たない。間違いないよ」音楽に身をゆだねていたアメコは一瞬固まってしまい、そして一度サルクの告げた事実を追い払おうとしたがそれは叶わなかった。「何? 今さら地上に戻って何をすればいいの?」とアメコは言った。テントの中は騒がしかった。
「ここにいると楽しいし、死ぬのは少し怖いし、人間といても嫌になるだけじゃない」
彼女はサルクの作る星のワインをボトルからじかに飲みながら、見えている現実を見えていないよう振舞った。「アメコさんは何のためにここに来たんだい?」「私は、失踪した恋人を追ってここへ来たの。けどその人はいないの。私は彼がどう思って生きていたかを知れただけで満足よ。旅はここで終わり、それでいいの。ここがゴール」
彼女はそう言った。街の河童たちは今日はほとんど皆このテントに集まってジャズを聴いている。彼女は地上にいると群衆を常に嫌悪したが、ここの人々はアメコを嫌な気にさせなかった。
「もし、僕が君を無理矢理地上に戻すとしたら君は何をするんだい?」
「できれば、溺れて死にたい。それが良いわ。水が好きだもの」とアメコは言った。
「地上で生きるのは苦しいだろう。苦しんで得られるものもほとんどない。人はただ死ぬだけだ。そう知っていても、アメコさんは生きて行くんだ。どこかに望むものがある限り」
「アメコさん、君の一番の願望は何なんだい?」
アメコは黙っていた。聞こえないふりをして、音楽に耳を傾けていた。
「アメコさん、君は望まなくてはならない。そうでないのなら、君がここに来た意味はない。でもそんなことはないはずだ、君は意味を持ってここへ来たんだから」コリンは続けた。「自らの望むものに気がついた時、人は死を超えて生きて行く」
「そんなの無理よ。私もう十分苦しんだわ。これで足りないって言うならほんとにうんざり、私は生きていたくないわ。苦しいことなんてもう嫌。戻さないで、私を地上に戻さないで、もう人の顔を見たくないのよ、私は二度と傷つきたくないのよ」
今のアメコには、きっと死ぬ理由が一郎よりもたくさんあった。
「子供の頃、私はお母さんに死んだら人は天国に行くって言われて育てられてきたの。あれって嘘でしょ? 天国なんかないんだし。死んで幸せになれるならよかったのに。死んで一郎と一緒になれるなら、私喜んで死ぬわ。でもそんなの全部嘘でしょ。だから、死に向かって生きているのが嫌なの。いっそ死んでしまって、希望も絶望もない場所で、永遠に。そうよ、だから、ここで生きず死なずに過ごしていたいのよ。現実でない世界にい続けたいの」
「一郎はそうはしなかった。何故だろう」
一郎はまとわりつく記憶から逃れられなくなり、それが自分の心を妨げていると信じて死んだのだ。彼女にもわかった。二十三歳という年にはそういった性質が含まれているのだ。記憶の重みが強くのしかかり人を縛り付け始める時なのだ。それを理解しているアメコは黙っていた。彼は死んだのだ。サルクはアメコの言葉を待たずに話した。
「君が勘違いしているのは、一郎が何の為に死んだかだ。彼は嫌なものを切り捨てるために死んだんじゃない。彼は常に自分の幸せを一番に考え、幸せの為に選択した。つまり、幸せとは、つまり何かを望むこと、存在していることだ、川崎一郎には望むものがあった。だから彼は死に損なってここにきたんだろう。河童の世界に来た人間はある時、この分かれ道に突き当たる。潜在的に抱えた望みを見つけられるか否かだ。見つけられないものは地上に戻り死ぬ。見つけたものはここで死に、願いを叶え地上に再び生まれる」
アメコは頷いた。そして言った。
「私は、一郎に会いたい」
河童にとって死は再生を意味している。だが、それは人間である一郎には関係のないことだった。河童は気が済むまで同じ意識と肉体で生まれ変わり続け、満足すると溶けて水になって死ぬ。河童の墓にはレインコートだけが埋められる、だが人間には寿命がある。肉体は灰になり、骨は土に還る。
「一郎は願いを叶えたの?」
「そうだ。彼はここで死に、地上に戻った」
「一郎の願いは、きっと、今の私にはわかる。彼の願いは、自分の記憶をすっかり消し去ることだったはずよ。彼は記憶を怖がっていたもの。だから固執していたの。できる限り知り尽そうとしたのよ。でも、そんなのまるでこの世界の全てを知ろうとするのと同じじゃない、無理なのよ。そう気づいたら、きっと彼は記憶を消し去ろうとしたはずだわ」
「僕は川崎一郎に会ったことがあるわけではない。だが、人間に関してはともかく、河童の記憶を消し去ることは科学の範疇だ。不可能なことではない」
サルクのその言葉を聞いて、心当たりのある河童を思い出した。あの先天性色素欠乏の人間学者である。アメコはひとりコリンの家へ走った。勢いよくドアを開け、コリンの顔を見るなりアメコは尋ねた。
「記憶はすっかり消えてしまったの? その記憶は今どこにあるの? 今の一郎には新しい記憶が蓄積され始めているの? 河童は人の願いを叶えることができるんでしょう」
赤い目をぎょろりと動かしながら、コリンは答えた。
「彼の記憶は僕の部屋にしまってあるよ。一郎にはもう記憶が蓄積されない。そのように手術してくれと頼まれたんだ。一郎は、記憶は残したくないけど、普段の生活はまともにできないと困るなんて図々しいこと言ったよ」
コリンは赤いコートを脱ぎ、真っ白の髪をかきあげた。そこには人間の耳が一対ついていた。
「それは、」
「一郎の耳だ」
コリンは一郎に行った儀式の内容を教えた。
「河童の技術で河童を手術するのはいたって簡単だ。でもね、河童の技術で人間を手術するのは少し別の話だ。一郎の記憶をすっぽり引き抜いてしまうのは難しくないけれど、その状態で人間を生かし続けるのは難しい。河童には普通でも、人間にとっては荒療治だからね。人間として歩き出した時に頭がおかしくなってしまうか、死んでしまう。そこで、彼は半河童人間のような状態になったんだ。僕とラルは一緒に彼を寝かして、まず殺した。それから脳を洗い出して記憶を掬い取った。そして、彼の耳を切り取ってそこに僕の耳を移植したんだ」
「要するに、河童の器官を移植することで頭がおかしくならないようになったのね」
「そうなんだ。でも、そこに一つ弊害。人間の器官は河童の体できちんと作用するんだけれど、河童の器官を移植しても人間の体では上手く動かないんだ」
「なんだか古いオペレーティングシステムで新しいアプリを使えないみたいね。今の一郎は耳が聞こえないの?」
「そうだね。一郎の耳はもう聞こえなくなっているだろう。最初のうちは河童の耳の神経の変換で上手く人間の脳に聴覚情報が伝わるはずだけれど、河童の耳は良いからね。一年か三年で脳が河童の耳からくる膨大な量の情報に耐えられなくなる。それに、そもそも彼に移植された河童の耳は、記憶がないことに対する埋め合わせだから、人間の脳を維持するために働くよう次第に適応するはずだよ」
「彼、音楽が好きだったのに」
「それを天秤にかけても、なお傾くくらい、記憶は重かったんだろうね」
「でも、記憶のない人間は生きていけるの」
「それを上手くやれるよう適応させるための河童の耳だ。彼の脳は今こう言う風になっているんだけれどね」コリンはそう言ってノートを開いて、そこにペンで地図のようなものを描いた。それは宇宙を平面で描いた星図のようだった。
「君も知っているだろう。脳は宇宙に似ている。もちろん立体を便宜的に平面に描いているわけだけどね、こうやって、脳は網目状になっているんだ。生活に必要な感覚の記憶と、物語のような記憶は別の網に格納されている。わかりやすく、これを知識と思い出と呼ぼう。僕は脳を手術して、知識だけが残り、あとの思い出は睡眠する毎にリセットされるように細工したんだ。そもそもこれらは別の網だけれど、お互いに絡み合っている。だから、片方だけを消した時、もちろん人間の身体では上手く知識を扱えなくなるし、普通は脳死状態になるんだ。とにかく河童の器官を移植することで、一郎は思い出と言われる記憶を全て消し去ったんだけれどね。まあ、そうはいっても、潜在意識と呼ばれる最深部、脳の中央にある本能的なあれこれ、個性なんかが詰め込まれている核と呼ばれるものには手を付けられなかったけれどね。あそこは複雑すぎて河童でも手を入れられない。まあ、一郎君が自分の意志でその意識にアクセスすることはできないだろうし、実質全ての記憶が消えたのと同義と僕は思っているね」
潜在意識を備えている脳の核とはどんなものなのか、また河童によって人間の脳はどう見えるのか、そんなことも気になったが、アメコはそもそも脳についての知識が多くはなかった。彼女にもよく分かることでコリンに尋ねたいことが一つあった。
「一郎の記憶をあなたが保存しているのなら、それを私に見せてもらうことはできないの」
アメコはどうしてもその記憶を経験したかった。誰にも見られずに置いてあるというのは惜しいし、そもそも彼女はそれを追ってここへ来たのだ。
「もちろん可能だよ。でも、この話を聞いて一度見るだけでいいと思ったのなら、アメコさんは馬鹿だと思うね」
その通りだった。
「私それが欲しいわ」
アメコは一郎の記憶を欲しがっていた。彼女はそれを喉から手が出るほど自分のものにしたいのだ。きっと本物の彼の記憶があれば、アメコは死ぬまで一郎と一緒にいるように感じられるだろう。
アメコの言葉を聞いてコリンは笑った。その笑みはどこか狂気的な含みを持っていた。コリンは人間の研究をしている。彼にとって生身の人間を実際に切り開くことは、何よりも幸せなことなのだ。喜ぶ白い河童を見て、彼女は少しおかしな気持ちになった。
「あなた人間の脳を触るのこれで二度目でしょう。それなら私の脳に彼の記憶詰め込んだりもできるでしょ?」
今や狂気はコリンの赤い瞳までをも覆っていた。それが彼の欲していたことだったからだ。科学者の血、河童の中に流れるバラ色の血が興奮していた。
「やらせてくれるかい?」
コリンは嬉しそうに表情を輝かせている。
「その代わり、僕だってわからないよ。本当にうまくいくとは限らないし、少なくとも君はまず何かを失う。失うことは避けられない」
自信に溢れているが、念のための警告は欠かさない。だが、アメコにはそんなことはどうだって良かった。川にでも身を投げて死のうと思っている人間に、失って困るものなどない。
「失敗したら殺して捨ててちょうだい。遺体はどこか地上の大きい川に投げてもらったらいいわ。私の身体に興味があるなら、好きなだけ切り刻んで捨ててもいいのよ」
「ラルが地上に行くときに放り捨ててくれるさ。世話ないよ」
そうしてアメコは一週間後にその儀式を受けることとなった。コリンとアメコは二人でラルの家へ歩き、ラルも交え三人で計画を説明した。河童の二人は、手術のことを儀式と言った。その過程には生から死、死から生へのシフトが含まれているからである。科学技術の発展した河童の先進社会においても死という概念は神聖なものだった。
コリン曰く、人間の脳は容量から言えば二人分の記憶を収納することが可能である。だが、その記憶を正しく二人分のものとして読み取ることはできない。二人分の記憶を正しく操る為には、一郎と同じように五感を司るほど重要な器官を河童から移植しても足りないほどであるらしい。
一度、記憶抜きを行ってから殺し、器官を移植したのちに再生、二人分の記憶戻しを行うのが無難であるだろうとコリンは言った。どう転ぼうが彼女は一度死ななければならないのだ。
コリンは難しそうな顔で言った。
「記憶を抜くのは簡単だよ。でも人間の脳に新しく二人分の記憶を詰めるなんて、正直上手くいかないような気がするな」
「河童の科学に不可能はない」とラルが通る声で言った。
「しかし、仮に詰め込めたとしても、それが読み込めなければ意味がないだろう。そもそも河童の技術で抽出した記憶だよ。それはもう、情報こそ一緒かもしれないけれど、単位としては半分河童の記憶みたいなものだろう」
医者のコリンがそう言うのを聞くと、流石のラルも頭を抱え込んでしまった。三人がテーブルを囲んで悩みこんでいると、弟のサルクが戻ってきた。
「やあ、コリンじゃないか。ひさしぶりだなあ」
「やあ、ワインは?」
サルクはカバンから新品のワインボトルを取り出してコリンに渡した。そして「僕死ぬことにしたんだ」と満面の笑みでコリンに告げた。コリンは驚いて、ワインボトルを見つめ「そうか、本当にこれが完成品と言うわけなんだな」と言う。「それにしても深刻な顔をして、何の話をしているんだ」とサルクは手を差し出した。サルクは二人の河童の手を握った。コリンには水かきがない。そのため彼はその白く細い手を引っ込めた。サルクとラルはしばらく手を握り合っていた。
「アメコ、そう言うことなら僕の脳みそをやるよ、早い話、河童の脳みそがあればいいんだろ?」
アメコはまた驚いたように目を丸くした。「そんなの、キメラじゃない」
「人間だって臓器移植や骨髄ドナーとかあるだろ?似たようなもんじゃないか。見つかってよかったな」コリンはそう言いながら、アメコとサルクの頭を掴んで、大きさを比べる。
「何なら皿もつけるか?」とサルクが言ったが、アメコは用がないので首を振った。
「脳みそまで河童にしたら、人間の身体動かなくなるんじゃない?」
「そりゃ平気だろうよ。脳みその一部を弄るんじゃなくて空の箱にすっぽり二人分の情報を詰め込むだけだし、サルクの体は使い放題さ。心臓と五感の一つを移し変えたら上手くいくんじゃないかな」
彼女はサルクの瞳を見つめた。サルクの美しい眼球、透明のガラスの中に浮かんでいる飴玉のような翡翠色の瞳をアメコは見つめる。
「あなたの綺麗な綺麗な青い瞳、私にちょうだい」
「君の茶色な瞳もとっても素敵だよ。死ぬ前にその目で世界を見てみたいな」
交渉はまとまり、サルクとアメコは握手した。
「ほんとは半透明の瞼も一緒に欲しいくらい、あなたたちの瞳って本当に綺麗よ」
サルクの葬式に集まった河童たちは皆アメコの顔見知りでもあったため、彼女は彼らに地上へ帰ることを告げて回った。農場で世話になったキャサディという河童は泣いて別れを惜しんでくれた。だが、やはり皆アメコが結局は地上へ戻らないといけないことを理解していた。儀式が始まる前にアメコとラルは二人で音楽を聴きながら、また池で話をした。
「儀式が終わっても目は見えるのかしら」
「脳みそが河童のものでも、きっと目は保たないよ。きっと、しばらくすると目は見えなくなる。脳と瞳を繋ぐ神経まで入れ替えていると君の顔が今のと違うようになってしまう。顔がすっかり河童みたくなっても嫌じゃないなら、目を生かしたまま施術できるだろうけどな」
彼女は首を振った。「一郎の目が見えるならそれでいいわ」
半年間彼女が河童の街で送った生活は、いたって普通の日常であった。のんびりと同じような日々を、何も考えずに過ごしていた。彼女はそれを神様のくれた慰めだと考えた。彼女は三年間心に虚ろなものを抱え生きていたのだ。その埋め合わせで、不思議な場所で楽に暮らさせてくれたのだろう。
相変わらず、街は淡い橙色の光の中に浮かんでいた。この地下の街には昼も夜もなかった。ただ疲れた時に眠り、休みが取れた頃に起きて働く、そういう時間の流れの遅い日々は良かった。だが、その日々も今日で終わりである。記憶を改造し視力を失った後に、アメコは何をして生きていこうか、と足元の魚たちを見て考えた。
「うまくいくかしら」
「心配なのかい? 君は死んでいるようなものじゃないか」
池の水は黒く澄んでいた。暗いような黒ではない。ただ、底に色がないだけなのだ。不思議な青くない水に、地上の魚たちが行ったり来たりしている。メダカの群れを見る時に彼女は一番喜んだ。ラルは半ば泳ぎながら、水面を漂っていた。見上げても空はない。だが、雪洞のような植物が星のように浮かんでいる。
「今度は地上で会おう。僕はお面でもつけて地上に行くよ。だからそれで一緒に旅にでも出よう。君は、一郎の記憶が全部自分のものになっても、彼本人に会えない限りは結局退屈なままだろうしさ」
アメコは不安な気持ちを持っていたが、ラルが会いに来ると聞いて少し明るくなった。
「いいわね。北海道に行きましょ?行ったことないんでしょう」
アメコは自然に微笑んでいた。
「ああ。いいな。それで、お土産を持ってここへ帰るんだ。その時は君も来ればいい。何も一生この街に戻れないわけではないんだから」
ラルは水底から透明のエビを捕まえてきた。手のひらに乗せて眺めている。透明のエビはしばらく歩いて、すぐに跳ね始めた。二、三度跳ねると水面に落ちて、波紋も作らないで水の中に戻っていった。瞬くように彼女の心に寂しさと惜しさが浮かび、音を立てて泡のように弾けた。彼女はもう一度太陽の下で綺麗なエビの跳ねる姿を見られたら良かったのにと思ったが、それはきっと叶わないだろう。
「そろそろ儀式が始まるよ」
彼女は来た時と同じ荷物を背負って、立ち上がった。