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アポカリプスドリームス 16.

 僕が大学に戻り最初にやるはめになったのは、授業をさぼっていた間に進んだ授業のノートをコピーして回ることだった。幸いクラスの友人は快く貸してくれたが、書き込みの大半が現地語によるものであったため、ほとんど役に立つことはなかった。結局後日蛍光ペンを引いたコピーを片手に友人をひとりひとり捕まえてわからないところを尋ねてまわり、ようやく試験勉強を開始することができたのだった。ひとり薄暗い部屋で植物の名前を覚えるところから始めていた僕は、やがて蛍のことを考え始めていた。勉強というものはとてもつまらないもので、気づくとわけのわからない脇道を通りひょんな記憶に辿りついている。連想ゲームの始まりまで辿ることはできず、僕は真剣に蛍のことを考え始めていた。どうしてか旅のことを思い出すことはなかった、網戸に張り付いた三匹のヤモリをにらんでいた。

 蛍という虫は雨上がりの月夜に羽化するとどこかで読んだことがあった――僕はどうして蛍のことを考えているのだろうか。やがて勉強をやめ、ヘッドホンをつけて音楽を聞き始めていた。読書灯も消してしまった。目をつむりデヴィッド・ボウイの歌うチェンジスに耳を傾けていた。静かな闇の中を象が歩き回っていた、どこかで見たディズニー映画のように二足歩行の象が輪を作ってぐるぐると愉快に踊りながら――これは暗闇の存在が脳内で認識されていることから起こった幻想に違いない。そしてその幻想の起こる隙はおそらく、脳のなかでも僕がさっき勉強に使っていた部位で生まれている。いいえそうではありません、と象の一頭がこちらを向き鼻を鳴らしながら歌った。

 彼が言うには僕がこれまで勉強に慌てていたために認知していなかった部分で、かなり前から始まっている宴なのだと象。その時僕は背筋を震わせていた――夢想の中でひとりでに踊り始めた象の集団が踊りをやめて一斉にこちらをにらんだからである、想像の産物が僕の存在に気づいて動いている――すると僕までがそちらに飲み込まれてしまわないだろうか?

 僕は気づくとそう象に語りかけていた。今や象の姿は存在していなかった――そこにいるのは広大な草原で寝転がり空を見上げるあの女の姿だった。僕が東北部を旅していて知り合った原付の女――彼女は言う「それがあなたの創りだしたものだという確証はあるの?」と。しかし君は実際にこの世界に存在しているのだから、幽霊的に外部から僕の中に入ってくることはできないだろう?「私はいつだって、きっとあなたと一緒なのよ。私たちが一人でいるときはずっとね。それが友達ってものでしょう?」だから僕は心細くないのだろう、そこに象が円陣を成して踊っており、彼女が眠っているから――僕はその時ついに思い知った、ここに僕が自覚したものの正体を。これらは文化の蝕みだ、僕の内側にそれは巣食う、どんどん大きくなっていく。デヴィッド・ボウイはもう聞こえなかった。僕はすっかり心の内側に繋がってしまっていたからだ。僕は彼女により意識的に話しかけようとした。しかし、そうすると彼女はすっとその姿を消し、草原の土を触れようとした、草から露が垂れた、雨上がりなのだ。葉の裏には虫がおり僕はそれが光るのでないかとしばらく睨んでいた。

 目を覚ました時、まだ窓の外は暗いままだった。街灯の下に羽虫の群れが照らされていた――つまり雨は降っていないということだ。僕は金魚が水面で空気を揺らすのを黙って聞いていた。街は寝静まり、寮内に起きている生徒がまるで誰もいないかのようだった。すっかり目を開いたが、コンピュータ液晶の青白光のせいで僕は、金魚の水槽を目視することができていない、そして背中の後ろを意識させられていた。誰もいないのに背中の後ろを感じるなんてことはあり得ないことだ。なぜかって僕がいるこの場所は故郷から遠く離れた異国の土地だからだ。僕は今真っ暗闇で怖いという感情を持っている、白い画面に映るデヴィッド・ボウイのアルバム画像は僕の背後を映してくれるほど陰鬱なものではなかった。グリーンはちょうど僕が夢に見た草原の緑、見上げる表情はどこかの女を思わせる。僕の後ろには誰もいないはずだ。そこに誰もいないのに気配を感じるのはよくある話だ。子供の頃はトイレの帰りが怖くて、たびたび速足で居間へ飛び込んでいた。何歳になっても暗闇に突如気配を感じる感覚は消えなかった、消えたのはここに来たからだった。正体がお化けであるからだ。髪を垂らし白い衣を風に揺らす女の幽霊は海を超えて来られなかったし、生首から内臓を垂らして夜な夜な飛び回る異国のお化けはいまいちピンと来なかった。一度も怖いと思わなかったし、むしろ真剣にお化けを怖がって、小さな祠をあちこちに作り毎日のように香をあげ、生き血に似せた赤いファンタを供えてじっくり手を合わせる友人を笑って暮らしてきた。

 しかし、夜だから背中が怖いというのが本当で、そこに人間が居もしないのであれば僕はもう笑っていられないだろう。明日から冷やかしでホラー映画を見たり、怪談話を聴くことができなくなるだろう。祠の前に群れをなす鶏や縞馬の人形、老木に巻かれた五色の布に恐れを成すだろう。今僕は生首から内臓を垂らすあのお化けを想像したくもなかった――ふざけた絵ではなく、本当に飛び回っている顔と目をあわせてしまいそうなんだ。諦め、お化けを受け入れるために僕は背後を振り向いた、そこには真っ暗な壁に、僕の形の影がコンピュータの青白光で切り取られていた。僕はいつしかこの国のお化けを怖がるようになってしまっているのだ、ため息をついて窓をあけた。風を感じて、Tシャツを被り、財布をポケットに入れた。友人の寝ぼけ顔を見るために扉を叩いた。起きてくるまでやめてやるつもりはなかった。僕の魔法の秋の最後の日々について話そう。

 道路沿いの生垣にはブーゲンビレアの細い茎から濃い紅色が氾濫していた。僕はナマズを引き連れ、目に入ったバスに飛び乗った。車掌のおばさんが僕らにどこへ行くか尋ねたが、僕は行けるところまで行きたい、と彼女に言い一番遠くまでの運賃を払った。

 バスが少し走るごとに、道沿いに露店の市場が現れた、僕はその光景が今後もあるものではないと気づいていた。近代化が進むにつれて変わっていく光景だ。中古っぽいちゃちいTシャツとか、ジーパンとか、バッタもんの腕時計とか、ブラジャーとか、なんでもある。もちろん果物とか野菜や魚も売っている。マンゴーはまだ緑だが、ドラゴンフルーツが並び始めるような季節だ。これがタイの秋だ。朝の渋滞にはまっていたせいで、僕はナマズさんにたくさんの話をした。学校のことや、テストのこと、大学院に進学しようと考えている、という話もした。物乞いが歩道橋の階段の下で楽器をやっていた。

 たくさんの人がゆっくり生きている。動かない車たちの隙間を複数人乗りの原付はあみだくじみたいに走り抜けていく。バスの隣のダンプの荷台には出稼ぎ労働者がたくさん乗っていて、楽しそうに話している。バスは二時間半かけて終点に到着した。

 強い匂いを放つ朝市を歩きながら、僕はナマズさんに言った。「本を書こうと思う」塩焼きのティラピアをじろじろ見ながらナマズは「いいんじゃないか?」と言った。九時には大学に行ってテストを受けなければならなかったが、僕らは氷の詰まったクーラーボックスに手を突っ込んでビール瓶を引っ張り出した。露店の店主は僕らが上着の下に制服を着ているのを見て笑った。

「でも、どうして急に本なんか」

 少しも歩かないうちに空が開けた――僕はこの感覚を知っている。高い時計台と小さなランダバウトがあり朝の五時四十分という時間を示していた。三十四度と気温が赤いデジタル数字で時計の下に表示されていた。やはりその向こうには埠頭があった。

「ねえこれチャオプラヤ川じゃない?すごく大きいよ」

 水面を見つめる広場では運動をしている人々や、学校に通う前のデートをしている男女もあった。僕らはビールを片手に水際への階段を下った。たくさんの魚が口を開けてバシャバシャやっている。

「初めて来た?」僕は頷いた。

「こいつらは多分パンガシウスだな」

「さすが魚の勉強してるだけあるね。属名?」

「そうそう。メコンオオナマズと一緒で、三角の背びれ、下の方についてる眼。なんかサメっぽくない?」

「どこへ行こうとしているんだろう」

 彼らは上へ上へと体をくねらせ、水から体を空気に晒したり、そうするほど力がない奴でも必死に口を水面から出したりやっていた。もう少しで触れそうなくらい近かった。「こいつら歩きたいんですかね?」

「まさか、そりゃどちらかというと飛ぼうとしてるんじゃないか」

 出航を待つ小舟や客船が上下し、それらは金色に輝き始めていた。風が唄い、国旗を踊らせ、川の上に模様を作った――波は川面にちぎれて、対岸の家並のシルエットが落とす暗い影と入れ替わったり追いかけあったりするんだ。水面は金と青緑色で揺れていた。あの時の風はもっと赤かったな、と僕は思った。ここのはとても青い。

 僕は思い出すことを水の上にみつけて、それを早くナマズさんに話したいと思って、彼に向き直った。

「旅行の話聞く?」

「勿体ぶるなよ」

 朝の胸をくすぐる風と、金と青の光が僕をワクワクさせていた。

「いや、僕だって本当早く話したいって思ってるんだよ。本を書きたいって思ったきっかけも、全部メコン川の話なんだ。記憶は共有されて初めて意味を持つって何かの映画で言ってた気がする、そういうことなんだ、僕が本を書こうと思ったのは。昨日おばけが出たんだ――僕たちはいつまで水に囚われているんだろう。とにかく旅行だけじゃない。話したいことはたくさんあるんだ。僕は、早く誰かに自分の見ている世界を聞いてもらいたい」