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アポカリプスドリームス .6

 目を覚ますと、横目に窓が見えた。窓の枠の中を尾を引いて流れていく光が街の灯りだと気づくためには、列車の揺れから思い出す必要があった。おかしな夢を見ていた。紫の空の下に、さっきまでの畑の牛とは対照的に、地方都市的な二階建てコンクリート造の影が並び、踏切ではヘッドランプが列を作っていた。踏切の向こうに伸びる道の上に切り開かれた空は、少し頼りない色をしていた。オレンジも紫も混じっていたが、ヘッドランプや街灯のような人工光を前にすると負けていた。車両から車両へ車掌がウドンタニーと駅名を叫ぶ声が響き、僕は荷物を背負った。徐行する列車の窓から見えたのは、古いターミナルの廃線路に生えた無数の草本だった――その奥に大小のコンテナが放置され、まるで大きな生き物が群れを成して眠っているように見えた。僕は夢を思い出そうとしていた。しかし、思考を辿ろうとすると記憶は魚のように僕の手の中から滑り落ちていく、すっかり沈んだそれは舞い上がった泥の奥にあるようでもう探せそうにはなかった。いつか背鰭を水面に見せるまで僕は長く待たなければならないのだ。諦め列車を後にした。空気はバンコクのそれよりは幾分涼しく、本物の秋に少しだけ似ていた。線路を渡り、国境ノンカーイへ向かい再び走り始めた列車を見送り駅舎を出ると、僕は風に当たった腕を摩りながら宿を探し始めた。逃げ遅れた自然光が屋台市場の白熱燈から逃れようと足元を走り回っていた。駅を出て最初に目に入ったブーアデンというホテルは新築のビルディングで、見るからに宿泊費も嵩みそうだったが一応フロントで料金を尋ねることにした。

 受付には眉を濃くぬり、髪をきつくまとめた若い女が笑顔で僕と話をした。ホテルの名前が入った黄色のポロを着た彼女はタイ訛りはあるものの他より聞き取りやすい英語で話した。僕はそれを見てそれなりの教育を受けている人だなと思い、料金を聞くまでもなく諦めかけた。やはりそこのは首都と変わらない値段だった。他にどこか安いところは知らないか、と僕が尋ねると彼女はビジネス調の微笑みを一転、気だるそうに、また図々しく尋ねる僕を面白そうに見て、受付を出てきて大通りまで歩いた。

「本当にボロいところでいいなら、この向かいね。歩道に椅子出して老人がビールを飲んでいるでしょう、あそこはいつも同じ人間がビールを飲んでいるんだけれど、関係ないことですね。あの奥の薄明かりの建物は宿なの。ここの半分以下で泊まれるし、外国人のあなたには珍しいかもしれない」と言い、指をさした。僕は礼を良い、その宿に向かった。受付で人を呼ぶと、一分ほど経って老人がビール瓶を片手に表通りから入ってきて、ボールペンと色褪せた宿帳を僕に突き出した。ボロいというのも値段も、彼女の言う通りで、西洋的でない黴の匂いも外国人の僕には珍しかった。

 当時僕がしていたことと言えば、大方高校の頃に好きだった女の子に対して手紙を書くことだった。宿の部屋に入ると、ベッドの上に荷物を投げ出し、テーブルに鍵を放って天井を見つめた。廊下側の壁は天井との間に隙間があり、そこは細い窓のように網が敷かれていた。静かな部屋には、廊下を介して隣室の音が響いていた――外国語のラジオ、扇風機の音、ものを置く音。やはり僕の部屋の天井にも大きな扇風機があった。スイッチを入れると大きな音を立て始め、隣室の生活の音は聞こえなくなってしまった。そこですることのなくなった僕はまたノートを取り出して、テーブルで手紙の続きを書こうとし始めたわけだ。ボールペンで塗り潰されている前のページを眺め、今日こそはうまく話せるのではないか、と希望を持つ――だが、また同じように後日塗りつぶされることとなる。実のところ僕は高校を卒業してから、その好きだった彼女に対していくつもの手紙を書き、それはノート数冊分にも及んでいたが、一つとして実際に送ったこともなかった。そもそも便箋でなくノートに書いていたことからも、僕は初めから送るつもりなどなかったのかもしれない。

 ナマズさんには恋人がいた。僕にはいなかった。僕の好きな女の子はほとんど架空の人間であった――高校時代はもっぱらその後ろ姿を目で追っていた。が、話したことはほんの一度しかなかったのだ。それは卒業の日で、僕は彼女に写真を撮ってほしいとお願いしたのだった。もう二度と会うことができないと思っていたからだ。彼女はちょっと待って、と言い残してどこかへ行ってしまった。その後四十分待ったが彼女は戻ってこず、僕はバンド仲間に呼ばれ校舎を後にした。だから僕が書いていた手紙は架空の人に宛てた文章であり、壁に向かって永遠とボールを投げるような行為だったのだ。旅先にまで来て実在も怪しい人間への手紙を書こうとしている、という状況を認識したとき僕はボールペンのキャップを閉じることとなった。そしてひとりぼっちでいる自分を慰めるために手紙を書くのではなく、他の人はどのように生活をやっているのかを考え始めた。高校生の頃に好きだった彼女はいつもひとりで歩いていた、そんな彼女に惹かれたのは彼女も自分と同じなのではないのかと思ったからだった。彼女も僕と同じように、自分の属する場所に見当がつかないで、自分がどこかへ属するべきかもさっぱりわかっていないのではないか。こんなことを考えていると、何度か回していたボールペンを落とすことになった。どうしてこの国に来たかとよく聞かれるが、ここに来た理由もそれに似た話だった。僕はこの国に来ることで自分の属する場所を見出すことができるのではないかと期待していた。

 しかし、こんなことは認めたくはないが、おそらく僕はこの国をだいぶ遅れていると思っていた――そして、少なからず見下している。窓からは相変わらず冷たい風が吹いていた、気候の違う場所に来れば何か変わると思っていたのだろうが、ここでも何もかも同じだった。具体的に何がどうある状態の環境が僕の期待している場所なのか、そもそも自分は何が好きで何が好きでないのか、レースカーテンの揺れる様を眺めていて気がついたのは、僕が自分自身の形を知っていないのでどこかにそれをはめることもできてないのだということだった。

 話し相手に困っていた僕はいつもそんな風にして時間を過ごしていたのだ。よく知らない人間に反応も得られないまま話しかけるのは、どこにも行きつかない行為で、僕は壁を認識せずボールを投げつけているので跳ね返ったボールの場所を見つけられず、次の壁投げにスムーズに移行できないでいたのだ。今はこのように真剣に自分に向き合い、架空の誰かに向けてというよりも、真剣に自分に向けて文章を書いている。跳ね返ったボールはうまく掴み、砂を落として、一秒後の自分に向けて投げることができるようになっている。僕はこの文章を一月に書いている。好きだった女の子に手紙を本当に送ったのは十二月で、今書いている旅が起こったのが十月の末だった。今この文章を書いている僕は、やはりデヴィッド・ボウイのチェンジスを聴きながら身震いしている。明日にも、僕の本当の魔法の秋が始まろうとしているのだから。