僕はうなずいた。言葉少なく、その人は僕をモーターサイクルの後ろへ促した。僕は彼女のこともまた覚えてはいなかった。しかし僕は彼女を知っていた。思い出せないのに知っているように感じるのは、きっと記憶ではない何か、存在しない場所に存在する見えない何かなのだろう。
どうやら彼女も僕のことを覚えているようだった。彼女は僕の顔をみて頬を赤らめた。僕はそれを見て先ほど見たばかりの日の出を僅かに気に留めたが、数秒のちには彼女の紅潮も、日の出も忘れてしまうのではないかという恐怖が起こった。
ノートに明記されているのはここまでだった。僕はノートに従って日本の成田空港から、タイ王国のドンムアン空港へ飛び、バンコクの国鉄ドンムアン駅から同ウドンタニ駅まで、計一日の移動を行ったが、ここから先のことについてを知らなかった。ただノートには「水を思い出せ」とのみ書かれているだけだった。
彼女は僕を紫色のモーターサイクルの後ろに乗せると、まず一軒のレストランに連れていった。ウドンタニ駅からは僅か五分程度の直線ではあったが、その間にも僕の目に飛び込んだ情報は多かった。道の広さに対して建物の低いことが、この町の空の広さを象徴しているようで、僕は見るごとに何かを知っているような気になった。
例えば車道から二十センチほど高く造られた歩道、そこに出された花屋が僕の目と鼻を刺激した。花屋の店先には青いバケツに浸けられた色とりどりの花があり、そこから花が売れていくと店主は少なくなった花を一つのバケツに移し、空いた方の中にあった水をコンクリートに捨てているらしい。遠くから涼し気に見えた水の捨てられる風景は、近づくにつれ嗅覚に触れる花の香りをそのまま視覚的に表している何か、象徴のように感じられるようになり。しばらくして、それはきっと、夜という情報過疎空想過多の世界から、昼のビビッドな現実世界へ切り替わる一瞬の閃光の象徴だったのだ、と僕は思った。とはいえ、その間十五秒、遠くから花屋を発見し、振り返っても見えなくなっている時までに起こった思考の道筋に過ぎず、昼という視覚の世界が如何に忙しく難しいものであるかを十分に示していた。
彼女が僕を連れて向かった店には、トゥクトゥク乗りが三、四人集まって朝食を取っているのか、仕事をさぼっているのか、平和な顔、劇的でない笑顔で、薄い色の茶が入ったガラスのコップを傾けていた。レストランの席に僕を座らせた彼女は、じっと僕の表情を伺っていた。
「お腹空いてるでしょ?きっと、何も食べてないのよあなた」
「どうして?」
「だって少食なんだもの」
「そうなのか」
この店はレストランというよりは、歩道に突き出た庇の下に簡素な青テーブルと銀椅子が置かれただけの場所で、調理場は通りに面している家の中にあるようだった。大した看板もなければ、メニューもない。
「まだお肉食べないんだっけ?目玉焼き好きだったでしょ?このお店あなたが前に来た店よ。あなたここを気に入って、二日連続で朝ご飯にしようとしてたらしいの、でもあなた寝坊しちゃっ他のね。この店すぐ閉まっちゃうのよ。仕方がないから入った別の店で私と出会ったんだよ。もう四年も前のこと。きっと忘れてるんだろうけど、そう聞くと良い思い出だと思うでしょ?」
「僕は、多分、君と同じものをお願い。あのお茶、美味しそうだな。僕も欲しい。あと、目玉焼きはきっと好きだ」
「そうでしょ。頼んで来るわ」
彼女は席を立って、キッチンがあるであろう細い入り口に頭を突っ込んで何やら叫んでいる。目玉焼きは半熟で、という声が聞こえ何となく朝とはこういうものなんだろうと安心に似た感情を持った。彼女の後ろ姿を見ているといたたまれなくなった。その人は弱々しく、諦めた人のように見えたのだ。彼女は真っ黒の長袖のTシャツに珈琲色のズボンを穿いて、やけに細く見えた。長く黒い髪はくくられておらず、風に好きなよう揉まれている。細く覗いた首元の白い肌は、タイの他の人間のものとは比べられないほど色が薄く、色素失調を彷彿させるほどだった。ことに赤黒い肌の百姓の多いイサーンにあっては、あれほど色の白い人間が野外を元気にモーターサイクルで走り回っている姿が不自然極まりない。
「家を建てたのよ。いいでしょう。昨日まではあいにくひとり暮らし、今日からは久しぶりのあなたとふたり」
彼女の瞳は大きく、また両端で鋭い。瞳孔はグレーのような薄い色で、自然と思慮深く厭世的な雰囲気を醸していた。見つめられると、目が背けられなくなるが、気恥ずかしいとか、緊張というよりは、魅力に取りつかれて捕らわれてしまうような瞳だった。
「知っているかもしれないけれど、僕は君のことを何も覚えていないんだ」
一瞬その瞳に翳りが見えた。
「知っているわ」と彼女は明るく答えた。
「仲良しだったのよ、お久しぶり。四年前にあなたがまだ何もかも覚えようとしていた時に、私たちはこの街で偶然知り合ったんだよ。あなたは当時この国に住んでいたのね。あなたがどう思っていたか知らないけれど、私にとってあなたは一番の友人。だから、何もかも忘れる前に私に頼って来たんじゃないの」
「何もかも覚えようとしていた、か。今の僕はどうしているの?」
「あなたは。あなたは、この間まで忘れたがってたみたいなの。今は忘れた状態で見ることを始めたところ」
目玉焼きとソーセージが乗っているブリキの皿は、どうもそのまま日の上で加熱する用に作られているらしく底に焦げ目がついていた。パンが乗っている皿はプラスチックのものだった。僕が半熟の卵の黄身を割って中に醤油を垂らすと、彼女は笑った。
「名前は?」
「私の?それともあなたの?」
「君の」
「私の名前はヒンハイ、タイ語で蛍って意味よ。でも私、日本語のホタルって響きが好きなの。だからホタルって読んでくれたら嬉しいな」
「わかった、それで、僕の名前は?」
「知っても仕方がないし、知ったら意味がなくなってしまう」
目玉焼きとパンを食べている間に、ホタルは一つの思い出を僕に聞かせた。それは僕がタイで初めてイサーンに旅してきた時のことらしく、彼女が話すとそれは美しく聞こえる。僕はおとぎ話を聞くように耳を傾けていた。
「私はあなたと、この近くのレストランで出会ったの。当時、私はこの町の中の上級ホテルの受けつけで働いていたの。あなたは休暇中の大学生でバンコクから旅行で来ていた。もっともレストランで会ったのが最初という訳ではなかったけれどね。レストランで会う数日前、あなたが町に来て宿を探している最中私の働いていたホテルにも来たのよ。あなたはお金がない学生で私の働いているホテルでは高すぎて駄目だからと言って安い宿を聞いて来たの。それがあそこに見えるあの薄暗いホテル。一泊200バーツの最安宿よ」
そう言って彼女が指さしたのはこのレストランの二つ隣にある薄汚い二階建てだった。軒先にプラスチックの椅子を置いて朝っぱらから老人がひとりビールを飲んでいる。彼は通りをずっと眺めている。
「あなたはあそこに泊まったの。それでさよならかと思ってたんだけど、その二日くらい後にたまたまレストランであなたを見つけて、それで最初に話しかけたのは私だった。あなたはびっくりしていたな。続きはまた今度話すね。行こう?私の新しい家を見せてあげるから」
彼女が勘定を払って、僕らは再び道路沿いに停められた紫のモーターサイクルに乗った。うなるエンジン音は列車のものより近く、景色の移ろいは速かった。ここには美化された記憶だけが残っている。