煙突から走って車まで戻って来たアメコはひどく汗をかいていた。彼女は一郎と二人で過ごした夏を思い出しため息をついた。とんでもない人だ、と悪態をついた。一郎は一体何を見せようと思ったのだろう。彼女は異様な植物の生えた壁を直視できず、そのまま駆けて帰ってきてしまった。自殺をした人間が抱えていた心を視ることが楽しいイベントになるはずはなかった。彼女を追い立てるこの恐怖、刺激、汗、荒い吐息、これが現実なのだ。これが一郎が最後に見た光景なのかもしれない。彼が見せたい現実、彼女が目を背けていた現実、恐怖、苦しみ。アメコはシートに深く埋もれて交感神経をなだめた。身体が涼しくなるまで窓を開けて煙草を吸った。彼女は入念に時間を呑み込みながら静かに煙草を吸った。空に浮かぶいくつもの楕円形の雲を見て、高鳴る胸を落ち着けた。その島のような雲は無数に浮かんでいたが、彼女は一つとして見逃さなかった。ひとつ、ふたつ、みっつ、全てに質量があった。それらがゆっくりと動いているのを見るに、上空では風がふいているのだろう。だが雲は形を崩さなかった。彼女は二十三まで形を保った雲の島を数えてやめた。多少心が落ち着くと、次は暗い気持ちが押し寄せてきた。二十三、もう若者らしく考え事をしているのが少しずつ恥ずかしくなってくる歳である。これまでの人生で一番楽しかったのは一郎と過ごした日々だっただろう。あの頃の煙草はもっと新鮮で美味しかった。同じような味は二度としないのかもしれない。一郎が消えてから彼女はどうしても、他人と深く関わろうという気にならなかった。常に人との交流を避け、ただ、いつか帰ってくるのではないかと一郎を待ち続けていた。昼過ぎのうんざりする太陽に目を細め、吸殻をペットボトルに落としてから窓を閉めた。
あぁ、私が、彼を迎えに行かないと、じっくり考え直し、後ろ向きに笑う。独り言をして深く煙を吐いた。すると、煙草の化学物質は血管でダンスを始め、喜んだ脳はドーパミンを垂らし、身体は太鼓を叩いてアドレナリンを再び送り始めた。記憶を振り払うよう、彼女はアクセルを踏み込んだ。孤独に耐え続ける日々は終わった。もう彼女は待たなくても、耐えなくてもいいのだ。行動こそが生なのだと叫ぶ様に、赤いスバルの軽四は走り始めた。アクションに意味などはない。意味のないところがいいのだ。淀むところで人は縺れ込んで悩み、苦しみ始める。水に酸素を送るのは流れであり、風である。動くこと、アクション、ムーヴメント、行動、移動、これが人を生かすのだ。考えると負けだ、意味などない、人が止まる理由に思索があるべきではない、静止することに休む以外の理由は必要ない。喪失と向き合う幸せに浸り、沈み続けるのだ。何も気にせずにただ目的だけを考えて追いかける日々はひとりで寂しいが、目を背けて待つ日々の数倍魅力があった。それはやせ我慢ではなく本音だ。ため息をつくと車の中は息苦しくなる、車の外に広がる景色はつまらないが一瞬ごとに変わっていく。苦痛に向き合え、これは実際の痛み、生の印なのだ。この旅を終えると彼女はどこへ消えるのだろうか、また平凡な寂しく孤独な日々が待っているのなら、一郎の痕跡をすっかり辿ってしまって後は自分も消えてしまうのがいいかもしれない。一郎の日記通りに彼女がゆくとすれば次の場所は大阪だ。
星空は過去の亡霊だった。夜の路上で彼女に併走するのは死者の亡霊の他の何者でもなかった。そこに孤独はない。彼女は星の重力に心を委ね、車を走らせる。視界を通り過ぎていく車のランプ、空気中を漂う記憶、過去、記憶、死、刺激、混乱を抱きしめて正常と思っている狂った脳。幻の美しい瞬間を懐かしんでうっとりする人は、現実に失望し、目を背けていた真実に突き当たる。アクセルを踏んでつまらない景色を後ろに吹き飛ばす、残像は消えず、点滅し、三原色にグリッチし、脳に蓄積された質量を外へ向ける。彼女の外ではない。この世界の外へ向けるのだ。はっきりと思い出せない記憶を燃料に、彼女の脳は意識の外側で、考え決断し道を探す。彼女が二度と一郎を見つけられないのなら、この旅は二つ目の苦痛に変わるかもしれない。そうなると彼女は生きてはいられない。そう知っていても彼女が車を走らせるのは、彼の亡霊を必ず捕まえると決めたからだった。アメコはどうしてでも追いつこうと決めたのだ。もし、それで駄目だったらその後の人生はどんなに苦しくても構わなかった。そもそも、初めからそうなるべきだったのだから。
アメコにとって一郎は恋人というよりも、もっと何か大切な存在だった。彼女はいつも彼を自分の片方だと信じていた。いつも彼の変化に引っ張られるように自分も変わっていくのをアメコはいつも感じた。分かれたまま生き続けることしかできない、そこに引力があるのなら、彼女はその力に従い、導かれるべきなのだ。
自分の眼球が寝てる間にどこかに行っちゃうと、不安でしょ?
他所で元気にやってるから大丈夫、なんて言われたら狂っちゃうでしょ。
私には何も見えないんだもの。それとほとんど一緒なのよ。
困るのよ。
彼女は窓からひとりごとを吐き捨てた。あるいは亡霊に呟いたのかもしれない。夜よ、空をもっと暗くして、何もかも影で塗りつぶして、私に記憶を考えさせるのをやめてよ、と彼女は願った。