シーツはとっくに床に落ちていた。冷たいのを探して合成樹脂のマットレスの上で寝がえりを打つ――象の皮膚のような細かい脈がうつ伏せの手のひらや草臥れた頬に跡をつけていた。感触は覚醒していない中でも知覚され夢に干渉してくる、暑さも同じだ――この部屋の窓から日光が直接俺に当たるのは正午の前後一時間ずつだけで、暑くなると目を覚まさなければならないことを恨んでいた。死んだ竜の干からびた身体、道路をイルカのように跳ね泳いだ雨季の大ナマズの記憶が俺を唸らせる、恐ろしい現実。夢の中にいる限りはその恨みも悪夢になり俺を追い回す。一呼吸ごとに喉を焼く灼熱の大気のイメージは常夏の乾いた春ではなく、昨晩の飲みすぎからやってきたもので、そのことに夢の中で気づいた俺は慌てて目を覚まして辺りを見回す――ケータイ電話を拾ってチャットの履歴を見たが、竜が生き返ったという連絡は当然なかった。酒で燃えるような悪夢を見た翌日に必ず慌てて飛び起きるのは、何度かベッドに吐き散らかしていたことがあったからだ。その日は幸い吐いてはいなかったが口の中には嫌な味が広がっていたし、パンツを履いていなかった。壁に飛び散った蛍光イエローのペンキが吐き気を叩いて笑う。
もっと最悪なことにはあまり知らない女――暑さを知らないのか俺のブランケットを抱きしめ裸ですやすや眠っていた。まず一目に外人だと思い、それでも一日が始まったことには変わらないので埃だらけの床からジーンズを取ってベランダに出た。このアパートじゃ水道がベランダにあった――鳥籠のように黒いフェンスが建物をすっぽり覆っていてベランダの柵から手を伸ばせば届きそう、出てくる度に鳥が逃げていく。つまりこれらの柵は鳥を捕らえるためのものではない。お化けが来るのを防ぐためのこの頑丈な黒いフェンス、内側にも高い木が生えており、どう飛び降りても何かしら引っかかって死ねないなという印象のアパートだった。それにしても誰がお化けが飛ばないと決めつけたのか?歯を磨きながら、フェンスの向こうに広がる森に遷移した空き地を睨んで――多分恐ろしいお化けたちはあそこからくる――ようやく昨晩のことを考える余裕を取り戻した――あいつがまるっきり知らない女というわけではないことも同時に思いだされる。同じ大学の生徒で、学部は違えど友人の友人の連れでパーティで一緒になったことがあったはずだ。青い肌に大きな目、インド・アーリア系の顔立ち、首からは金のタリスマン――おそらく佛陀をさげていた――仏教徒というからには何らかの事情で我々がお互い服を着ないで寝ていたとはいえ、何もなかったと思うべきだろう。あの日も彼女のなんとなく気分の悪そうな、青白い肌の色が好きだったはずだ。目がぎょろりとでかいのが際立って見えて、笑うと一気に唇が赤くなるのを思い出した。
歯を磨きながら昨日一緒にいた仲間を思い出そうとする。ピート、パニック、ティーパコン、それからパニックの女、カイワンのカップル、人の顔が一通り頭に浮かび上がってもこの女はいない――あれらが俺のコップに氷とビールをせっせと注ぎこむ様子までフラッシュバックしてベランダ柵の向こうに唾を吐いた――ますます例の青い顔の仏教徒にどこでぶつかったのかが見えない。彼女は学部から何からまるっきり違うはずで、パニックやカイワンら学科の仲間が連れてくるはずがない。うがいをして、歯磨き粉を吐いて部屋に戻り、ベッドの隅に腰掛け女を眺めた。サンダルをくるくる親指で回しながら、空調をつける。うなり始めると冷たいのが白い霧になって慌てたように噴きでる。彼女は依然裸で眠っている、俺の真っ赤なブランケットを一層きつく身にまきつけて――服は脱いでも金の佛陀はぶら下がげたまま、煤けた銀のチェーンがたるんで鎖骨に沈んでいる。髪をほどいた彼女を見るのは初めてなのかもしれない、床に転がったペットボトルを拾い上げて喉に水を流し込んだ――あほみたいにぬるくなった水、いつ買ったか分からないほとんどごみみたいなのだが水道に口をつけるよりは多少マシ――色の薄い柔らかい胸が呼吸している。
時間を見るともう三時になりそうで、ショボい窓はすぐグレーになり、部屋はすっかりコンクリートの無様なボロに変わった。窓を閉める音で彼女は目を覚まし、裸の上半身を昼下がりの薄暗い光に晒した――枕元のケータイ電話で時間を確認しながら、彼女は舌をぺっと出して考えるような顔をしていた、しかし何も考えていない女。俺は着替えるのを見ないようにして、机の上をほとんどを占めている水槽に餌を放り込んで、彼等を見た――赤いボララスの群泳、これは上見では良くない、あとはオーロラの色をした闘魚と、病弱なフグ――水面でぱくついているのをひとしきり見てからベランダに出た。手を洗っていると彼女が出てきて、わからない言葉で何か言う、わからんからゆっくり話してくれ――今日も煙草を吸ってみるわ、とさっきとはまるで違うようなことを言った。白いTシャツを着ていた、彼女はどこも汚れてはいない――髪は結ばれてその子は人に戻っていた。ほっそり背が高く、肩は小さい。水槽の前にあった煙草を取って渡すとベッドの上で吸い始め、咳込んで水を、と言う。最初に何を言ったんだと聞くと、どうして自分はここにいて、もうこんな時間になっているのか、とゆっくり、簡単な言葉で言いなおした――彼女は困惑しているというより、理解できない状況に笑っていた。彼女が咳込みながら煙草を一本吸い終わるまでに二本吸った。どうして彼女がここにいて、もうこんな時間になっているのかは俺も分からなかった。
黙って煙草を吸って、天井の小さな蛍光灯の中で煙の筋がふらついているのを眺めていた。彼女は俺に名前を聞いた、俺は答え、同じことを聞いた。ゲッド、それが彼女の名前らしい。建築学部の院生というのは今初めて知ったか忘れてもうかなり時間が経っていた。初めて会ったんじゃないだろう、と彼女も言った、一回何かのパーティーで一緒になったはずだと覚えていた。が、誰のパーティーなのかは彼女も覚えていなかった。大勢を集めすぎて誰も主催者を知らない、そんなパーティーには知り合いもいないもので、俺と彼女はただ象使いが中央で芸をやっている様を、隅っこで黙って眺めて、コップの中に氷とビールを入れてぼけっとやっているうちに一言二言話したか、ただ近くにいただけか、そのパーティーも二カ月か三カ月前の話だろう。昨夜どういう顛末で彼女が俺の部屋に転がり込んだのかは全く覚えていなかった。
喉が乾いたわ、とゲッドはぼんやり呟いた。そして隅にあるプラスチックのごみ箱に空のペットボトルを捨てた。トイレ借りるね、彼女は小さな便所に入っていった。それでまた机の上の水槽で泳いでいるオーロラ色のベタを眺める――鰭が長い、赤も青も紫も弾けている白ベースの美しい奴で、名前はヴァイデマン。ノルウェーかスウェーデンの画家の名前から取ったはずだが、こいつの色のその絵に似たこと以外元の絵の名前も筆も昔に消え失せている――そうだ、これはオーロラの色だったはずだ。壁のすぐ向こうのトイレから水音が生々しく響く――この女は生きている。よくこうなのかと尋ねると彼女は何が?と床にあったタオルで手を拭きながら聞き返して来た。人の家で記憶も無しに目を覚ますのは当たり前なのか?と英語で尋ねると彼女はノーと言い、自分は処女であるはずだと笑った――昨晩はどこにいたんだ?彼女はチャトゥチャック夜市と言って鼻で笑うようにした。いつまで記憶がある?俺のことは覚えているか?――花火が上がった。覚えているわ。トイレの帰りに会って喋った。それで二人で何杯か飲んでタクシーに乗ってキックバーへ行ったわ。――キックバー?そんな賑やかな酒場へ二人で行ったのか?ンガムヲンワン通りの?――そう。ンガムヲンワン通りのキックバーよ。彼女はそう言ってため息を吐いた。ケータイ電話を心配そうに眺めて居たが、笑いながら俺に一枚写真を見せてきた。それは俺とゲッドがキックバーで撮った写真だった――キックバーのボロい木テーブルに何本もコーラ瓶とラム酒が並んでいる――氷の入ったブリキバケツ、水滴、ビール、コップ、クロンティプ煙草のひしゃげたソフトパッケージ。俺はため息を吐いた――嫌だった?彼女は心配そうに言った。いや、その写真俺にも送って。彼女はベッドに胡坐をかいて――ランニング用みたいなショートパンツを履いていて、ももの内側にある肉が柔らかくマットレスの上で平たくなっている――Wi-Fiちょうだいと俺に言った、彼女はしんなりした、首元の佛陀の鎖が揺れて反射する。俺はベッドに寝そべって、彼女にWi-Fiのパスを見せた。ケータイ充電してもいい?――黙ってコンセントを指す。ありがとうとタイ語で言って小さいポーチから充電器を出した。目の下にくまがあり、その下にそばかすがあった、腕は細い――Tシャツの袖の隙間からだけふっくらついた脂肪が見えた。彼女はこげ茶の目で言った。実家に連絡しないと心配されるわ。すればいい。シーツは掛けないの?――ああ、床に落ちて汚れてしまっているから――青色の不気味なカビが、打ちっぱなしの床のそこかしこに生えていた――病気なるわ、彼女は鼻をすすって電話をかけ始めた。しばらく冷房の音だけ部屋で低くうなっていたが、すぐに彼女が早口でまくしたてるようにタイ語で話し始めて、俺は枕元の本を取った。寝そべったまま、冷房の風を直に当たりながら、読む――曰く、ガクラオ部落のギラ・コシサンは大変に大人しい男だった、その妻のエビルは頗る多情で、部落の誰彼と何時も浮名を流しては夫を悲しませていた、俺はふと二日酔いの気分の悪さを思い出し、唸った。ゲッドはまだちらちら俺の方を確認しながら電話をしている。片手でTシャツの裾をいじくりまわしている――どうせ言い訳を必死で喋り回っているのだろう。せいぜい男の家で目を覚ましたことまでどうにか隠し通せるくらいで、酒を飲んでばかりいたことは話すことになる、そういう調子だった。廊下の方でがらがら音が聞こえる、声からして学生でこれから出かけていく、日曜の夕方――バンコクは毎日が夏で、酒を飲まない夜はない。昼間に暑すぎる空気を吸わないよう気をつけて部屋で冷房に当たっておいて、多少マシになる夜にぞろぞろ歩きだす――尤も夜でも二十度台になることはほとんどないが、太陽が出ていないだけ幾分マシ――それがバンコクの学生の週末だった。安いバスや高くないタクシーに乗って、皆思い思いの酒場へ足を運ぶ。酔いつぶれるまで飲んだりはしないが、たくさん飲んで忘れることは少なくない。氷を入れたビール、油性マジックの味がする蒸留酒、米のウォッカ、深くなると陽気になる。彼らの仏教は日本のものと違うが、また似ている。
電話が済むと彼女は胡坐を崩してベッドに横になり、俺のTシャツの文字をなぞった。そして不気味な大あくびをした。怒られたか?彼女はうなずいた。家はヤワラート中華街の近くらしいが、生まれは南部で大きくなってからバンコクに移ってきたとか、聞きもしないのにべらべらと並べた。結局どうするのか、と尋ねると実家には明日の晩まで帰らないと言った。――親の顔が見たくない年頃なのね、ほとぼりが冷めるまでは帰る気にならない、と。ここにいるつもりか、と尋ねると大きく首を振った。こんな汚いところ一生タダでも生きられない、と下手な英語で笑った。学部の友人の部屋が大学から遠くないところにあるのだと彼女は言った。ここはンガムヲンワン通りのモールより向こうだ、と教えてやると彼女は遠いな、と途中まで俺を睨んで言い、諦めたかタイ語で文句の続きを言った。紫のスカイトレインでどこへでもへ行けるんだぜ?――俺が言うと、そんなのいいから、お腹が痛いわと言った。何か食べろよ。この近所、何かあるの。四時を過ぎるとパンティップ電気街の下に美味いカオパッドの屋台が出る。写真送った?彼女はちょっと待って、とケータイ電話を取り俺に渡した。連絡先を入れてやると、写真が届いた。いくら賑やかな酒場とはいえ夜で露光を長くしている為、俺もゲッドも顔が滲んでひどく不細工だった。パンティップの下でカオパッドを買い、ベンチで食ってしまうと彼女はバスに乗って大学の方へ帰った。俺はランドリーにシーツやその他床に散らばっていた布の類を突っ込んで、夜になるのを待った。